今回は京都伏見の酒である。
一般に「灘の男酒、伏見の女酒」と云われる。
男が好んで飲む酒、女が好んで飲む酒という意味ではない。
それも多少は関係するかも知れないが、おもには仕込みの水による酒質に関係するものである。

灘の酒の仕込み水は、六甲山の伏流水「宮水」である。
六甲山を形成する岩盤は花崗岩が多いので、その水質はミネラルが豊富な中硬水であるため、キレの良い辛口の酒が造られる。
これを「男酒」と称しているのである。

一方、京都の伏見の水は「伏水」の名前の由来が示す通り同様に伏流水である。
しかしここは軟水で、朝廷から「御香水」の名を賜っている。
桃山丘陵をくぐってくる水で、どちらかというと甘口の優しい酒が造られるので、「女酒」と称されるのである。

薀蓄は後にして、早速味わってみよう…。
酒は月桂冠鳳麟(ほうりん)である。

大吟醸であるから美味しいのは当然であるが、甘やかな中にもスッキリ感がある。
そして後口が極めて良い。
いくらでも飲めるというのが正しい表現であろうか…?

この酒を味わうには立派な肴は要らない。
漬物を肴にしたが、より酒の味が引き立ったように思われる。

瞬く間に瓶(但し300ml)が空になってしまった。
確かに飲みやすい美味しい酒であった。

能書きを見てみる。

原料米は有名な「山田錦」と「五百万石」だそうで、精米歩合50%まで磨いているそうである。
山田錦は麹との相性が良く酒造りには最適であると云われているので、あえて説明不要と思うが、五百万石を混ぜることは、まろやか、すっきりの酒に仕上げる狙いがあると云われている。

また発酵期間は一般の酒20日に対して、30日を掛けているそうである。
その分、発酵温度を低温にしていて、香りと風味がじわじわと醸し出されて来るというのが、狙いである。

この酒は大衆酒中心の月桂冠の中では最高級品であろうと思われる。

月桂冠のこの鳳麟は、明治大正には、東京方面に出荷した高級酒を鳳麟正宗と云っていたが、戦後、全国発売するようになって、名前を鳳麟のみにして現在に至っているそうである。

余談ではあるが、酒の世界的コンテスト、モンドセレクションでは5年連続の金賞受賞がこの酒のステータスにもなっている。

この機会に伏見酒と月桂冠の歴史を辿ってみる。

伏見はあの豊臣秀吉に注目され、築城と城下町が造られたところであることは良く知られている。
城下町ができると、当然のことながら、酒が造られることになる。
上手い具合にここには「御香水」があったのである。
酒の需要は飛躍的に伸びたという。

しかしそれだけではまだ酒処とは云えない。

江戸時代になって、参勤交代の制度ができ、西国大名は大坂から船で伏見港に上陸し、旅装を整えるために暫く逗留した。
そこで改めて大名行列となし、東海道を江戸へ下るようになったのである。

このころは伏見は既に城下町ではなくなっていたが、西国の大名の必要性から、多くの大名屋敷や倉庫や旅籠が並んだ重要な拠点となっていたのである。

当時の酒蔵の数は急増して、1657年には83軒もあったと云われている。
月桂冠の前身「笠置屋」が大倉治右衛門の手によって創業したのは、その20年も前の頃であった。

余談であるが、この頃に創業して、現在まで続いている酒蔵がもう一軒ある。
当時の屋号は「鮒屋」と云い、現在の北川本家。
酒銘は「富翁」である。

しかし伏見の酒造はその後、平穏無事ではなかった。

江戸幕府は灘や伊丹、池田を幕府直轄の酒造地として手厚く保護した。
秀吉の匂いのする酒はまかりならなかったのであろう…。
そして京の町へ伏見の酒が入ることをも禁止した。
伏見の造り酒屋は瞬く間に減って行ったと云われる。

もう一つは幕末の鳥羽伏見の戦いの勃発により、酒蔵の殆どが破壊されてしまったのであった。
勤皇か佐幕か知らないが、他人の街を戦の名を借りて簡単に破壊してしまい、責任は取らないのが常である。

京都の人々は、街を焼かれたりすることには慣れている。
意地でも他人の手を借りずに再建するのが、京都人のいいところである。

それに悪いことに天皇が東京に行ってしまい、都ではなくなった京の人々は、あの手この手の産業興隆策を実行した。
その中に勿論、酒造業の再建もあった。

伏見の酒の盛り返しには凄いものがあったと云われている。

その成果は、明治四十四年に開かれた政府主催の全国清酒品評会に、伏見から28点の出品がなされたと云う。
そのうちの23点が入賞の栄に輝いた。
全国の最高位を占めたという。
そのなかでも月桂冠は最優等の栄冠を博したという。

幕府の施策に守られ、胡坐をかいてきた灘の酒蔵たちは驚いたという。
その時以来、伏見は天下の酒処として、名を轟かせたのであった。

以来、伏見の酒は栄えてきた。
中でも月桂冠は全国トップシェアを維持し続けた。
現在は灘の白鶴社にトップは譲っているが・・・。〔前章参照〕

月桂冠の拡大戦略はカップ酒であった。
明治の末にはすでに駅でコップ付きの酒を売ったという。

そして、今から20年弱前に、業界初の200mlカップ酒を売り出し、業界は右に倣え…、先駆者利益もしっかり得ているのである。

も一つ、米国へも比較的早い時期から進出していた。
その関係で、米国内でのシェアは現在は25%もある。
当時は「Gekkeikan」が日本酒の代名詞であったが、その後他社の進出もあり、「Sake」又は「Japanese Sake」と呼ばれている。

長くなるが、最後に余談…。

昭和3年のこと、
近鉄京都線(当時奈良電鉄)が京都と奈良間に電車を走らそうとして、伏見の町の縦断と、陸軍工兵隊練兵場を横断する路線を計画したそうである。

民間鉄道が軍用地を横断するなんてとんでもないことで、許可されるわけはない。
そこで窮余の策として、伏見の町の区間の地下化に変更したそうである。

地下と云えば井戸である。
申し入れられた伏見酒造組合は、酒の生命でもある仕込水の井戸があるところに地下電車を通すなんて、もってのほか…、設計変更を申し入れたのであった。
併せて軍部や鉄道省に、少しは譲りなさいと申し入れたそうである。

その結果、軍部は説得されて、工兵隊練兵場西部に、高架による用地使用を認めさせたと、いまだに語り継がれている。

〔ほの酒 完〕