大阪府の東部、生駒山に近い寝屋川市、四条畷市、大東市の境界に深野と云う街がある。
結構広い街であるが、電車の駅が無いので、あまり良く知られていない地名である。

今回はこの深野を訪ねてウオッチングしてみる。
深野とは深い野原という名付けであろう。

少し古い話になるが、
現在は大阪府の南部を流れる大和川が、その昔は北に向いて流れ、この辺りから西を向いて流れていた。
そして北の丘陵地から流れて来る寝屋川もこの辺りまで来て西に流れ、それぞれが淀川に流れ込んでいた。
これらの川の作用で幾つかの河内湖が形成され、この辺り一帯は湖沼を中心とした低湿地であり、深野池という、中でも最も大きい池があったことが地名の起こりである。

大雨が降れば、流域の村々は洪水に悩まされていて、この地域の土地改良が望まれていたことは云うまでもない。

江戸時代には、その元凶の一つである大和川の付け替え(流路変更)が行われ、その跡地を埋め立て新田開発がなされたのであった。
その一つの新田が深野池とその周辺を埋め立てた深野新田である。

深野新田はその後、北新田・中新田・南新田の3つに分割され、北・中は鴻池又右衛門、南は平野屋又右衛門が所有するところとなった。
そして鴻池の新田は深野新田、平野屋の新田は平野屋新田となり、現在でもその新田が取れた地名が残っているのである。

さて、深野を訪ねてみよう。
最寄駅はJR学研都市線の四条畷(じじょうなわて)駅である。
下車して西へ歩く。
余談であるが、駅から一つ西の筋を少し北へ行くと南北朝で知られる楠木正行(まさつら)の墓所がある。
この辺りは、南朝の楠木軍と北朝足利尊氏軍が最後の戦いをして、正行、正時が自害に追い込まれ、南朝方が壊滅した歴史的に由緒ある場所でもある。
最後の1人まで戦った楠木軍の和田賢秀(けんしゅう)の墓碑もある。

西へ進むと寝屋川市に入る。
少し行くと国道170号線(外環:大阪では「そとかん」という)に達する。
外環道路とずっと西に流れている寝屋川との間に大公園がある。
東西400m、南北800m程度の広さである。
面積は約30ヘクタールもある。
「深北緑地公園」という。
この公園の深野の部分は、深野北と云う住所地の約3分の2の広さを占めている。

この公園を北から南へ歩いて見る。
公園は一段と低い場所にある。
元々は池であったからである。

この公園ゾーンはA,B,Cの3つに分かれている。
一番北がBゾーンで、桜の苑と遊園地である。
ふれあいゾーンと呼ばれている。
丁度桜が満開の時期であったので、平日にも関わらず多くのグループが花見を楽しんでいた。

続いてBゾーンの南にある車道堤防に上がってみる。
南を眺めると、目の下に先ずスケボーやローラースケートの練習場がある。
そしてその向こうの左側(東側)は本格的な運動公園であるスポーツゾーンである。
球戯場、テニスコート、野球場、そして最南端にはこれも遊園地である「ロケット広場」と云うのがある。
右側(西側)は池を配した公園で水辺のゾーンという。
この池はかつての深野池の名残である。
そして池の寝屋川側にはポンプ場と称するビルが建っている。

この池の水辺を南へ歩く。
公園が終わるところの右側には、大きな水門がある。

なぜこのような構造になっているのか?
遊園地でありながら、別の大切な機能も持っている。
それは西側の寝屋川や南側の権現川が増水して、溢れ出さんとするときに、この緑地に水を引き込んで溜める機能である。
このような機能を遊水池と云う。

この緑地のまわりは寝屋川の堤防と同じ高さの堤で囲まれている。
そして、寝屋川と接する堤の一部は堤防よりも一段と低い「越流堤」としていて、寝屋川の増水時には寝屋川の水を勝手に緑地内へ引き入れるようにしている。
緑地内はの3つのゾーンのうち、先ずはAゾーンへ、一杯になれば次はBゾーンへ、それも一杯になればCゾーンの順に流れて溜まるようになっている。
そして排水時には南にある水門を開いて排水する。
全体の貯水容量は146万立法メートルで、大きなビル10棟ぐらいの水量を溜め込むことができると云う。
過去には、Cゾーンまで水を溜めたという実績もあり、大いに役に立っている。

深北緑地の公園を抜け出て南に進んでゆく。
街中の方向である。
まずは農地が続く。
そして左手に大きな学校がありその裏を通ってい行く。
学校は大東市立深野中学校という。
周りは住宅街となる。

中学校を過ぎると自動車道に出る。
ここまでは深野北という地名であったが、ここから南は深野という。
一丁目から五丁目まである広い地域である。
先ずは深野3丁目となる。

南へ下がって行くと、桜並木の向こうに大きなグラウンドと校舎が見える。
正門まで回り込んで校名を確認する。
「大阪府立緑風冠高校」という今風の名前が付いている。
以前は大東高校と云ってた学校である。

学校の校門前に広い新しい道が付けられている。
これを少し下がると橋を渡る。
谷田川に架かる橋である。
この左手の山麓にある野崎観音に通じているかつての野崎街道沿いの川である。

この川を渡ると右手にはかなり広いグラウンドがある。
大東中央公園と云う。
整備された直後なのか、造作物などはピカピカである。
この公園を西に回り込んで、寝屋川沿いの道に出て、そこを南へ下がって行く。
この辺りは深野1丁目である。
少し行くと左手に公園があり、奥には神社がある。
「両皇大神社」という。
天照皇大神、豊受大神、菅原道真公を祀る神社である。
この場所には深野新田の会所があったと云われている。
因みに、前の寝屋川に架かっている橋を会所橋と云われるのは、その理由によるものであろう。

この場所で一旦深野は終了である。
この少し南へ行ったところに大東市役所がある。
今度はその市役所の傍を通って阪奈道路まで出て東進し、深野南を見てみることにする。
深野南という住所地は狭い地域で、それも工場街である。
地元では良く知られている「NK製作所」がその半分ぐらいを占めている。

更に東に進むと、学研都市線の線路を跨いで平野屋という住所地になる。
この住所地の一帯が深野の南新田である。
この新田の所有者平野屋又右衛門から名付けられた街であるが、今回は無視して北へと進む。

自動車学校がある。
その横を通過して、水路を渡ると深野の住所地に帰って来た。
深野5丁目である。
処理工場の金網フェンスと川に囲まれた細い道を東へ進む。
少し臭気が漂うが、付近の住民の方はどうなのであろうか?

深野の東の境界である先程の外環道路まで出て、歩道を北へと進む。
道の両側には外食を始めとする店舗が並んでいる。

暫く行くと外環道路の下で、JRの野崎駅へ行く道が分かれている。
左手は野崎参りの屋形船の終点となる船溜まりがあったところである。
これもパスして駅に向かう。
駅の手前まで深野5丁目であった。

野崎駅に到着した。
ここで深野の街の一巡は終りとなる。
かなりの長い道のりであった。

元気が残っていれば、東にある生駒山麓の野崎観音にお参りするところであるが、ここで終了としよう。

余談であるが、
この深野(ふこの)の南新田の南に御供田と云う地名がある。
ここは古くから開拓された農村で、八幡太郎源義家が上洛の折、石清水八幡宮へ農地を寄付し、八幡宮を勧請した。
それ以来、八幡宮の社領となり御供田(ごくでん)と称するようになったと云われる。

また、この生駒山麓から大阪の中心部に掛けて、JR学研都市線や近鉄奈良線の沿線に、
低湿地から新田へ開拓したところが並んでいる。
鴻池新田、新喜多新田などである。
現在でも大小多くの河川が流れている土地で、今も尚、水との戦いが続いているところであり、敬服に値する。

〔完〕