「ひ」の酒は、「ひょうたんからこま」という酒銘である。
「酒呑童子」と云う銘柄でおなじみの京都丹後の由良にある酒蔵「HR酒造」の醸造である。

手に入れた酒は純米酒で、そのデーターはアルコール度14~15度、日本酒度+3.0、酸度1.7、精米歩合70%となっている。
使用している酒米は丹後山田錦であるが、規格外米100%だそうである。

規格外とは聞き慣れない用語である。酒蔵からは下記の様に説明されている。
酒米は粒の大きさで等級に分けられる。
大きい粒の方が良いものとされるが、この等級から外れたお米のことを「規格外米」と云う。 規格外は酒造りには不適とされ、処分することになるとのことである。

しかし小粒でも山田錦の酒米である。
HR酒造では、この小粒を集めて酒を造ってみようということになり、出来た酒に杜氏もびっくりする程美味い酒に仕上がったそうである。
その時杜氏が言ったひとこと「ひょうたんからこま だな…」が酒の名前となったそうである。

早速頂いてみよう。
酸度が1.7であるから濃厚である。
辛口度はさほどではない。
喉越しは爽やかである。
そして飲むほどにその濃醇さが甘く感じられるようになってくる酒であった。

こういう粋なことをする酒蔵「HR酒造」は江戸末期の創業である。
場所は京都府の大江山脈の北側、若狭湾・栗田湾に流れ込む由良川の河口・左岸の海岸べりに開けた「由良」というところにある。
鉄道は北近畿タンゴ鉄道が走っていて、日本三景天橋立の東南側の海沿いである。
風光明媚なところで、海水浴場としても良く知られている。
そして行政区では現在は宮津市由良地区となっている。

この酒蔵は元々は大農家だったそうである。
酒蔵を開業したいと田辺藩(西舞鶴)へ願い出て、免許を取得した。
当初は年貢米を使い、年に35石、10年後には120石、現在は1200石と大手の酒蔵に比べると一日の量にも満たないそうであるが、その分丁寧な酒造りを心掛けて来たそうである。

このように小さな街にある酒屋は、昭和の中頃までは地域に密着した半径2kmの商売と言われてきている。
酒瓶がなかった時代には、酒が運べないので、客が徳利(とっくり)を持って酒を買いに来ていて戦後間もなくのころまで続いていた。
酒屋を中心にコミュニティーができていたようでもある。

また酒屋は、その利益を還元することも大切にしていた。
学校や郵便局を立てたり、文化人の援助をしたり、興行を誘致したりである。

HR酒造も地域との関わりをこのようにしてきた酒屋で、現在も立派に街の中でビジネスを継続しているのである。
因みに、江戸期から続いている産業・業種で一番多いのは酒蔵とのことでもある。

さて丹後由良であるが、小倉百人一首でも詠われている。
「由良のとを 渡る舟人 かぢを絶え
ゆくへも知らぬ 恋の道かな」〔第46番 曾禰(そね)好忠〕
曾禰(そね)好忠は平安時代中期の人で、長く丹後掾(たんごのじょう)という地方官を務めていて、曾丹後とか曾丹とも呼ばれている。

この由良でもっと有名な話は、森鴎外の小説にも書かれた「山椒大夫」の舞台としての伝承地である。
山椒大夫の元々の話は説教節の一つで、鎌倉から室町に掛けて発生した芸能である。
浄瑠璃の原型のようなもので、江戸寛永・寛文期の頃が全盛と呼ばれている。

「山椒大夫」は、岩城の判官・平正氏の御台所とその子安寿とつし王(厨子王)が、帝から安堵の令旨を賜るべく都へと向かった途中、人買いにたぶらかされて、親子離れ離れに売られるということから始まる。
姉弟は丹後の長者「山椒太夫」のもとで奴隷としてこき使われ、辛酸をなめることになる。

やがて姉の安寿は弟を脱走させることに成功したが、それがばれて山椒太夫の息子・三郎によって凄惨な拷問を受けた末に殺されてしまう。
つし王は神仏により救われて出世し丹後に国司として赴任し、山椒太夫父子に奴隷として働かされていた使用人たちを解放し、雇うように命ずるという復讐を果たした。
その後、母が佐渡国にいると聞きつけたつし王は佐渡に向かい、盲人となった母親に再会する。
丹後に戻ったつし王は安寿の菩提を弔うため、地蔵菩薩、金焼地蔵を丹後の国に安置して一宇の御堂を建立した。
このような物語である。

由良川左岸の石浦というところに、「三庄大夫屋敷跡」という説明板と石碑があるとのことである。
また右肩に焼かれた跡がある金焼地蔵は身代わり地蔵として、町内の如意寺というところに祀られているとのことである。
いつかは訪れてみたいものである。

〔ひノ酒 完〕