「ぬ」を頭文字とする難読街角、当たってるかどうかはわからないが、生駒山の山腹の街、大阪府東大阪市の額田町とその周辺をウオッチングすることにする。

大阪難波を出た近鉄電車は日本橋や上本町、鶴橋、布施を過ぎ、ラグビーで有名な東花園、瓢箪山を過ぎると、生駒山の山裾の斜面を上昇し始める。
徐々にではあるが、眼下の景色が変わって東大阪市や遠くに大阪市など大阪平野が広がってくる。

山腹の駅は、大阪側から枚岡、額田、石切の3駅があり、石切を過ぎると、電車はトンネルを潜り、奈良県の生駒市へと抜ける。
今回はその額田駅で下車して、歩いて見ることにする。

額田駅で降りるとそこはもうかなりな傾斜地である。
山に向かったり、下に下ったりすると、かなりエネルギーを使いそうなので、横方向に通っている町内の幹線道路?を石切方面に歩いて、街を見てみることにする。
額田町の街並みはこの道路を中心に上への路地の上り斜面、下への路地の下り斜面に住宅が建てられている。
日々ここで生活するのは大変だな…と思いつつ、しかし足腰は鍛えられるだろうなとも思われる。

さてこの額田町、由来はどうであろうか?
古代、ここには渡来人の豪族額田氏が住んでいた。
額田氏はいくつかの系統に分かれていて、ここに住んでいたのは額田首という一族だと云われている。
当時のここの額田氏の生活域はかなり広く、生駒山の山頂から平地の恩地川の辺りまでと云われている。

古代の歌人に「額田 王」という女性がいた。
この額田王はここの出身でないかと云われている。
しかし諸説あるので、この場所がとは言い切れない。

『三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情こころあらなも 隠さふべしや』
〔額田王 万葉集巻1‐18〕

この歌は、667年に都が飛鳥から近江の大津京に移ることになった時、その近江に向かう途中で詠んだ歌である。
『飛鳥を離れて、遠い近江の大津京まで行かなければならないのに、
雲はなぜ三輪山を隠してしまうのか、最後まで見ていたいのに、
情けあれば隠さないでほしい、この寂しい気持ちを分かってほしい』

なぜ、皇族方や豪族の大津への大移動(遷都)が必要だったのか?
少し歴史を遡って見る。

当時、大陸の中国は唐の時代、朝鮮半島は高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)と三国が鼎立、わが倭国も含めて、残念ながら、大国の唐から見ると属国ような扱いであった。
わが国は遣唐使という形で、唐の宮殿まで使者を派遣して、皇帝太宗・高宗に拝謁するなどの融和策を取っていた。
見返りに、沢山のお土産を入手、文化交流のようなメリットもあったのではあるが…。

唐は、朝鮮半島での影響力を強くして、そして日本をも、ものにしようと企んでいた。
朝鮮半島で、唐・新羅連合軍と高句麗・百済連合軍が戦っていたのであった。

蘇我氏を倒して、意気揚揚たる中大兄皇子ではあったが、親百済派、半島に援軍を出して戦っていた。
それでも百済が破れてしまったので、奈良飛鳥の都には居辛くなり、奥方の里に近い、近江の国、大津に遷都することになったのである。
大津の宮で中大兄皇子は天智天皇として即位した。

都建設や法制つくりの合間に、皇室ご一行は野遊びにも出かけた。

『あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る』
〔額田王 万葉集巻1‐20〕

『茜色の光に輝き、紫の花の咲く、天智天皇御領地の野で、
あなたはそんなに袖を振ってらして、野守が見るかもしれませんよ』

あなたとは大海人皇子(おおあまのおうじのこと、この後に起こる皇位争奪戦、壬申の乱の主役である。
大海人皇子は天智天皇の弟という人物であり、彼は親新羅派である。
このときは額田王は天智天皇の妃であった。
三角関係であったのでは?と云われているが、それはそれである。

このような古代の物語が浮かんできそうな、額田町という響きである。

額田町から北の石切方向に歩いて行くと、石切神社の参道との交差点に至る。
この場所には石切大仏が座っている。
看板によると、日本で三番目の大仏だそうである。
開眼は1980年、今から33年前、高さ6mで、阪本昌胤氏が建立したとの説明がある。
何が三番目なのか? 良くは分からない。

阪本氏はこの辺りに多額の寄付をして貢献したとの説明もある。
そういえば、少し怪しげな強精ドリンク剤「阪本の赤まむし」と云うのを、大阪ではよく聞いたことがある。
この阪本氏は石切で創業した阪本漢方製薬の4代目当主で、結構財を成したのであろうか?

ここから石切神社の参道商店街を登って見ることにする。
かなりな傾斜である。
途中には千手寺と云う在原業平が中興したと云う寺もある。

参道商店街には占いの館が沢山ある。歩く毎、館の前を通る。
霊感、手相、タロット、姓名判断、陰陽師、……。
ありとあらゆる占いの手法が見られる。
この時は、半数ぐらいの占い所で、占い師と客が対面して座っている。
行列のところもある。
テレビに出る有名占い師の館もあるようである。

参道を登り、近鉄のガードのところまで来た。
この線路沿い近くに石切駅がある。
ガードをくぐると、今度は石切の上之社への参道であるが、店は無く住宅地の中の急坂を登って行くことになる。
坂はかなりきつい。
ほうほうの体で、上之宮に辿りつき、お参りを済ませたのであった。
元々はこの上之社のところに石切神社が鎮座していたとのことで、幾つかの摂社が周辺に配置されている。
また、神社が建立したと云う「夢観音」がある。
閉ざされていたのでどうなのかはわからないが、現代的な建物である。

この石切神社は正式名を石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)といい、創建は古く、神武天皇の時代と云われている。
細かいことは避けるが、石切神社は「石切さん」として親しまれ、「でんぼ(腫物)」の神さんとしてお参りする人が後を絶たない。

今度は下の本社まで降りてみることにする。
神社の本殿と入口の間にある「百度石」の間を行き来するお百度参りは有名で、この時も多くの人がお参りしていた。
本殿にもお参りして、またまた参道を登る。

大抵の神社や寺は、参道を登ってお参りするようにできているが、このように参道を下ってお参りするのは珍しい。

しかし最近、近鉄生駒線が開通し、神社とほぼ平行な平地に、新石切駅が出来た。
きつい参道を下ったり上ったりしなくて良くなったので、参拝者には便利になった。
その分参道の商店街を通る人は少なくなって、売り上げにも影響しているであろうと、心配にはなる。

石切まで来てしまった結果、横道に逸れてしまったので、元の額田町に戻ろう。
今度は商店街を登り詰めて、先ほどのガードをもう一度潜り、線路沿いを額田駅方向を目指す。
時々電車が走っているが、上り電車は高速とは言えない。
かなり傾斜がキツイのであろうか?

暫く行くと左側に石切温泉「SR」という大きなホテルがある。
この辺りの大ホテルで、イベントや大宴会が開かれるところである。
下界の平地から眺めているとそう大きなものとは思えないが、真下では相当大きい。

この辺りの足元には、トンネルがある。
一つは近鉄生駒線のトンネル、もう一つは、第二阪奈道路のトンネルである。

暫く歩いて額田駅に到着した。
この辺りから山に登って行くと、渓流沿いに建立されているお寺、あるいは枚岡公園、そして生駒山の稜線の手前には府民の森「ぬかた園地」があるが、もうそんな元気は残っていない。
駅の看板で額田の読み「ぬかた」を確認して、ウオッチングを終了とする。

額という字を「ぬか」と読むのは、「ぬかづく」というひたいを地面につけて拝むと云う古代の習慣から来ている。

〔完〕