京都の玄関口JR京都駅の近くに五重塔が聳える世界遺産「東寺」と云う大寺院があることは良くご存じのことであろう。
鉄道唱歌に、
『東寺の塔を左にて とまれば七条ステーション
京都々々と呼びたつる 駅夫のこえも勇ましや』
と歌われ、京都のシンボルともなっている。

この東寺の近くにJR京都駅よりも更に近距離に「東寺」と云う駅がある。
京都と奈良を結ぶ近鉄電車の駅の一つである。
京都駅を出て奈良に向かう特急以外の電車は、先ず一番に東寺駅に停車する。
この路線を利用している人なら皆が知っているが、利用しない人は駅があることすらご存じないのではと思われる。
東寺駅はそのような目立たない駅である。

かく言う小生も下車したことは無かった。
今回は東寺駅で下車して、界隈を見てみることにする。

東寺駅を下車するとそこは九条通りである。
京都駅の少し南側にある通りで、市内の東西を結ぶ。
交通量の多い通りである。
この九条通りを東へ行けば、地下鉄の「九条駅」を過ぎ、鴨川を渡ってJRと京阪の「東福寺駅」に至る。

駅の直ぐ東側に油小路という大きな通りがある。国道1号線である。
この通りを北へ少し行って見る。
右手に最近出来た「Iモール」の大きな建物がある。
その道路を挟んだ前に玉垣に囲まれた神域がある。
伏見稲荷の御旅所である。
その南側の道は東寺通りと云う。
この東寺通りを西に向かう。

近鉄線のガードを潜り、更に進む。
正面に東寺の門が見えて来る。
「慶賀門」という。
この門の前は大宮通りである。

東寺境内にはまだ入らずに、塀に沿って大宮通りを南へ向かう。
「東大門」がある。
南北朝の時代に、京都奪回を叫び攻め上って来た足利尊氏がこの東寺を本陣とした。
それを新田義貞がこの東大門の外から攻めたが、幾ら呼び掛けてもこの門を開けずに応じなかったという謂れのある門である。
「不開門(あかずのもん)」と云われる。

さらに南へ行く。
五重塔の真横である。
そして九条通りまで出て、西へ行く。

大きな門「南大門」がある。
この門から境内へ入る。
正面に国宝金堂、右手に国宝五重塔がある。

奥へ進むと講堂、左手に弘法大師が住まいしたという国宝大師堂、広い境内である。
食堂を過ぎ、北大門を潜ると右手には「観智院」と云う塔頭がある。
塔頭ではあるが別格本山となっている。
ここの客殿は江戸期の建立であるが、国宝となっている。

北大門を出て左手には私学の洛南高校がある。
陸上100m走の桐生選手の通う学校である。
他にも駅伝やバスケは全国レベル、進学にも力を入れている東寺経営の学校である。

東寺は平安京造営に合わせて、桓武天皇が開基した王城鎮護の寺であった。
正式名は「教王護国寺」と云う。

東寺の西にある羅城門(らじょうもん)を挟んで西寺も建てられたが、今は西寺は残っていない。
後程、その場所を訪れてみよう。

東寺を出て西に歩く。
少し行くと道の右側の少し入った所に「羅城門遺址」の石碑が建っている。
滑り台もある児童公園となっている。

公園の横あたりの路地を西へと歩く。
住宅街である。
暫く行くと大きな公園状の広場がある。
「史蹟 西寺阯」の石碑が建っている。
平安京造営時に東寺と共に官寺として建立されたが、少し後の嵯峨天皇の時に、東寺は空海に、西寺は空海のライバルの守敏(しゅびん)に下賜されたとされている。

しかし平安京の西側は水はけの悪い低湿地で、疫病が良く流行るため住民がいなくなり、寺もそのうちに寂れて、そのままになったと云われている。

西寺阯から南の九条通りに出て西へ行くと、西大路を越えて桂川に至る。
いわゆる西国街道である。
しかし今回は西へは行かないで、元の羅城門の跡地に戻る。

羅城門の近くを南北に通っている通りを千本通りという。
平安京の都のセンター通り朱雀大路の南端である。

ここから洛外へ至る道が東西と南へ始まっていた。
西は西国街道であるが、南は鳥羽離宮、院御所へ向かう鳥羽街道、東は伏見から奈良へ向かう奈良街道であった。

この東寺の界隈は諸国への出入りとしてかつては賑わったのであるが、時代は変わり、現在は北東にあるJR駅や更に北東の東山辺りが賑わいの中心となっている。

〔とノ駅 完〕