近鉄奈良駅の南側の一区画(東向町)の南に椿井町、餅飯殿町と云う名前の街がある。
近年は奈良観光も東大寺や興福寺、春日神社だけでなく、伝統的な古い町並みである「ならまち」が観光コースとしてもてはやされつつある。
椿井町、餅飯殿町はこのならまちの最北部に位置する街であり、今回はこの両方の街とその周辺のウオッチングをして見る。

椿井町も餅飯殿町もそんなに広い町域ではない。
30分もあれば全域を網羅してしまう。
その分、周辺も含めて入念にウオッチングすることができる。

近鉄奈良駅の西側の道を南下すれば先ず椿井町に行くことができる。
この道はかつては奈良の中街道と呼ばれていた。
説明立札によると、
『中街道は角振町から椿井・東城戸・南城戸…京終町に続く道を云う。
上街道、下街道とともに大和盆地を南北に貫く産業道路として県道に指定された。
江戸時代から明治、大正、昭和初期まで、豪商が軒を並べていたところである』

この立札は、街道入口の隼神社前に建てられ、その南隣には延命地蔵尊も祀られ、地区の人々や旅人の安全・健康を祈念している。
この中街道を南下して椿井町に向かう。

この道はそう広くない道である。
車の離合は人が居たりすると大変であるが、それでも車の通行量は多い。

椿井町はそう大きくない街である。
直ぐにその中央部にある奈良市立椿井小学校のところに到達した。

この小学校のガラス窓に、「創立140年」という数枚の文字ポスターが貼られている。
140年と云うことは、明治の4年か5年であろう。
恐らくは奈良の最初の小学校であろうと思われる。
今は全て鉄筋のモダンな校舎になっているが、以前には伝統の建物もあり、かつての景観を形成していたのであろう。
この小学校は、そう広くもない椿井町の面積の4分の1程の面積を占めている。
しかしそれが、奈良最初の学校を抱えているという町民の誇りであると思われる。

椿井町や椿井小学校の「椿井」と云う名は、かつてこの小学校の一隅に、弘法大師によって創建された椿井寺があったと云うことから名付けられている。
何故椿井寺なのか?、
その寺の境内に、大師が開掘した井戸と、その傍らには椿が植えられていたことに起因している。

通って来た中街道を挟んで、小学校の向かいに「古梅園」というかなり古い町屋商家がある。
書道の墨の大老舗である。
その隣に「椿井市場」というマーケットもある。
墨汁を販売する店やら、着物を販売する老舗商家も街道筋にある。
更にその南に、コンクリート造りの町屋風の「アコール・ファン椿井」という一風変わった小洒落たマンションがある。
このマンション、奈良市建築文化賞受賞したとの表示があった。

古梅園に来たついでに我が国の墨の歴史について考えてみる。
古代、我が国では松の木を燃やしてその煤から作る松煙墨が主流であった。
その後、中国宋との日宋貿易が盛んとなり、植物油を燃やして作る油煙墨「唐墨(からすみ)」が手に入るようになり、貴族たちが愛用するようになった。
墨の色と云い品質と云い数段の差があった。
それに目を付けた興福寺の僧侶たち、胡麻油を一手に握っていたことから製造・販売を初め、たちまち南都油煙として全国に知れ渡ることになったのである。

この奈良の墨が更に有名になるのは戦国時代のこと、信長・秀吉の商工業振興策により、寺社独占から民間へと墨の製造販売が移行していったのである。
その代表は、松井道珍が天正年間に創業したと云われるこの「古梅園」で、現在まで連綿として受け継がれて来ているのである。
秀吉の時代に日明貿易により、菜種油が大量に輸入されるようになると、南都油煙は大量に生産されるようになり、奈良の名産品として、その地位をゆるぎないものにしたのであった。

江戸時代は奈良の墨商は30~40軒ほどになり、幕府の直轄地と云うこともあって、隆盛した。
しかし、このように隆盛の一途を辿ると横槍が入るのが常である。
御三家紀州藩出身の吉宗将軍が、松煙墨である紀州墨を幕府御用達として援助したため、奈良の墨は窮地に立たされたが、負けずに頑張った結果、何とかトップの地位を保ったのであった。
しかしこのころには墨商は半減したと云われている。

幕府の直轄領であった奈良の産業は安政の大地震や黒船来航と共に衰退、壊滅的になった。
墨も例外ではなく、このころには10軒余りの墨商しか残っいなかったと云われている。
その残っている代表がここ古梅園で、長きに渡り奈良の墨を支えて来たのであった。

墨屋さんで長居をしたが、次に進もう。

南へ進む。
小学校の運動場を半分くらい過ぎたあたりは、もう別の町名となる。
広い通りに出る。
東に行けば元興寺である。

元興寺に行くまでに、餅飯殿町から南下してくる通りと交差する。
ここももう餅飯殿町ではなく、下御門(しもみかど)町である。
そして南へ行くと脇戸町、高御門町となっている。
これらの地名は元興寺の門に因んでつけられた町名である。
この道を更に南下すればかつての奈良の遊郭であった木辻町に至る。
更に南下すれば京終(きょうばて)に至る。
JR桜井線の京終駅があるところである。

少し脇戸町へ踏み入れて見る。
旧町屋商家の建物がいくつか見られる。
書道で有名な杉岡華邨美術館、市立資料保存館などがあり、少し寄り道をしてみる。

資料館では、この辺りが奈良奉行所であったことを示す資料や解説展示があった。
改めてならまちのことを勉強させて貰った次第である。

Uターンして、元の広い道まで戻る。
今度は北に方向を変え、まず下御門の商店街に入る。
商店街の入口には、ここも古い商家があり、今も食事処として営業している。
「ED川」という鰻料理で有名な店である。

下御門商店街を過ぎ、餅飯殿町へ入って行く。
ここもアーケードの商店街となっている
餅飯殿センター街と云う。
中型のスーパーマーケットもある。
観光向けだけではなく、ならまちの庶民の生活に係る商店街でもある。

さてここで餅飯殿という地名について考えてみる。
その地名の由来については商店街の真ん中あたりに説明パネルが立てられている。
それによると、
『「餅飯殿」の地名の由来は諸説ありますが、こんな伝説が残されています。
今から千百年余り前、東大寺の高僧、理源大師が大峰山の行者を困らせる大蛇退治に出かけることになりました。
そのお供に名乗り出たのがこの町の箱屋勘兵衛と若者七人衆。
たくさんの餅をつき、干飯を作り、大峰山に向かいます。
そして、大蛇の被害を受けた人々たちに「餅」や「飯」を配り、無事に大蛇を退治します。
その後、理源大師は、この町の若者に「餅飯の殿」の称号を与え、その労をねぎらいました。
以来、この町を「餅飯殿」と呼ぶようになったということです』
この他にもいくつかの類似したエピソードがあるが、いずれも吉野や天川弁財天が関係し、近世初期ごろから始まった弁財天信仰の頃に生まれたものであるのは間違いが無いようである。

餅飯殿センター街にはいくつかの路地があり、それを抜けると先ほどの椿井町に出ることができる。
両方の街同士は背中合わせである。

この路地の1つで「率川橋」という表示がある4本の石柱を見つけた。
率川(いざかわ)は春日の山から流れ出て奈良公園を横切り、猿沢の池を周り、ならまちを流れ、佐保川に注ぐ川である。
しかしこのならまち辺りは暗渠となっていて、その流れが見えないのは残念である。

センター街に戻る。
そろそろ餅飯殿センター街も終りに近づき、出発となった三条通が見えてくる。
スポーツ「MH]という店も健在である。
この店の横の路地を東へ入って見ると、猿沢の池に突き当たる。
池の向こうに興福寺の五重塔が見える。
奈良の代表的な風景である。

元に戻り、三条通りへ向かう。
出口の左側に巾着きつね(うどん)で有名な「MT庵」ある。
既に行列ができている。
そして商店街を出たところの左手は、高速餅つき実演で知られる「NT堂」である。

この地点で椿井(つばい)町・餅飯殿(もちいどの)町のウオッチングを終了する。
丁度昼時になっていたので先程の「MT庵」の列に並び、巾着きつねを試してみることにする。
このうどんの話は、また別の機会に…。

〔完〕