これは、和歌山県の紀北、和歌山市の南隣の海南市に於ける酒造りの話である。
この海南市に、戦後に酒造業を開始し、彗星の如く県内第一の酒蔵と云われるようになった企業「N酒造」、現在の名は「NBC」がある。
酒の銘柄は「長久(ちょうきゅう)」と云う。

長久を手に入れて飲んでみた。旨口で比較的とろりとした酒である。
実はこの酒、以前にもよく飲んでいた。
味は忘れてしまっているので以前とは比較できないが、技術の進歩のなせる業なのか、さらに飲みやすく美味しくなっているような感じがする。

この酒蔵の創業者の中野利生はもともと建築職人・大工であったが、酒蔵に憧れていたと云う。
そして酒に近づく第一歩として、醤油の開発、製造、商品化をまず行った。
それは戦前のことであった。

元々、和歌山は醤油発祥の地、海南から少し南で有田川を挟んだ湯浅が発祥であるが、それを手本として独自に製法を編み出し、成功したのであった。
和歌山で最初の薄口醤油も開発したと云われている。

醤油ビジネスの成功を得て、戦後すぐに焼酎の免許を取得し、次のステップの酒造業に乗り出したのであった。
これも上手く行き、3年で県内トップになったと云われている。

その次に梅の産地である和歌山の特徴を生かした梅酒の製造を行った。
その梅酒は現在では大きなビジネスになっていると云う。

そして昭和33年に日本酒の免許を取得し、いよいよ念願の酒造りに向かうことになったのである。
その日本酒ビジネスも20年の歳月を経て、県内で一位を占めるようになったと云われる。

その成功の秘訣はなんだったのだろうか?

和歌山は元々醤油の発祥地であるがゆえに醤油文化である。
漁業も盛んで、美味しい魚介類も沢山手に入る。
醤油で煮付ける煮魚料理が郷土の料理として好まれるという背景があった。

中野氏はその料理に合うのは、ブランド力だけで売れている灘の生一本のような淡麗辛口の酒ではなく、芳醇甘口の酒である筈だと考えた。
そしてその種類の酒を造るのに情熱を燃やし、仕上げたのであった。

幸いなことに、中野氏の工場のある藤白山を伏流してくる井戸水は軟水で、甘口の酒を造るのに適していた。
その甘口の酒は言うまでもなく地元の人々に受け入れられ、徐々に販売量が増えていったのであった。

それだけではない。
それだけでは灘や伏見のブランドには勝てない。
そこで、酒の等級毎に酒の品質をワンランク上げることに力を注いだのであった。
そうなると同じランクの酒の中では少し抜きん出ることになり、コスパの良い酒が市場に並ぶことになる。
そしてそれが上手く当たったのであった。

ローカルな話しではあるが、今や押しも押されもしない地元No.1の酒造会社となっているのである。

このNBCのある海南市、元々は紀州漆器や和傘や棕櫚加工品、そして港湾業の街で豊かであった。
「N酒造」が右肩上がりで急成長していたころは街も栄えていて、小さい街であったが、映画館は4館か5館あった。
常に封切り映画が見られたのであった。
料亭や居酒屋も沢山あり、「長久」の看板はそこここで見かけられた。

ところが時代変わって、商店街はシャッター通りと化し、火が消えたようになっている現状は寂しい限りである。

余談であるが、
このNBCのある藤白と云うところは熊野詣や牟婁の湯(白浜温泉)へ往来する峠道にとりかかるところである。
飛鳥の時代に皇位継承の争いに巻き込まれた孝徳天皇の皇子・有間皇子が皇位簒奪を計ったとして謀られ、中大兄皇子一派に処刑されたところとして知られている。
皇子の墓碑もこの付近にあり、歴史を偲ぶものとなっている。

話を戻そう…。
このような地方の街はどうなっていくのであろうか?
全国共通の課題であろうかと思われる。

もう、大手の工場誘致の時代は終わった。
その土地に立脚した地場産業の復興がキーであろうと思われる。

その意味でN酒造のような地元企業が健在で発展していることは、将来にも必ず繋がる嬉しいことである。

是非とも、この街の牽引企業として頑張って欲しいものである。

〔ちの酒 完〕