大阪・京都を結ぶ京阪電車の京都側の終点は出町柳駅である。
この出町柳駅の西側は、高野川と賀茂川の合流点で、ここから川は一本の鴨川となって京の市中を南下する。
この両川の出合いに囲まれた逆三角形の地域を「糺の森」という。
この糺の森には世界遺産の下鴨神社もあり、ご存じの方も多いのではと思われる。
糺の森は総面積約500万平方メートルもあり、かつては全て神社の境内であった。

しかし明治初期の社領の没収により、神社の部分は40分の1に縮められてしまっていて、その削られた大部分は、現在は街となっている。
この糺の森を出町柳駅からウオッチングしてみる。

出町柳駅を地上に出て川端通りを横断し、高野川に架かる河合橋を渡るとそこはもう三角地帯、糺の森の南端である。
このまま真っ直ぐ行って賀茂川に架かる出町橋を渡れば、糺の森の外である河原町通りへ出てしまう。
先端部分は市民が憩える広場となっていて、時には楽器やバンドの練習場でもある。
この場所から北の下鴨神社へ向かうことにする。

この突端部分は公園状になっていて、それに隣接して住宅地やその他の施設が見られる。
最初は下鴨東通りを進む。
恐らくは一の鳥居であろう大きな鳥居のところで道が二股に分かれているが、鳥居の下を潜る道を進んで行く。
個人の住宅やら、何らかの施設と思われる大小の建造物が落ち着いて並んでいるいる佇まいである。
道沿いには京都家庭裁判所もある。但し正面側ではなく、裏である。

神社が近づいて来ると、神社の参拝者用の駐車場や研修施設が現れる。
横の通りと交差する所には、朱塗りの灯篭に挟まれて、神社への参道が奥へと続く。
この横の通りを御蔭通りと云う。

この道を東へ行くと高野川に面して「SG茶寮」という有名な料亭がある。
この道を西へ行くと下鴨本通りに出て、その本通りを左へ行けば葵橋である。
葵祭の行列が通る道である。

下鴨本通りを右にとって北上すれは、加茂みたらし団子の老舗や、食事処、商店なども見られ、北大路、洛北高校前に達し、更に北へ行くとノートルダム女子大学のところの北山通り、そして山を越えて、宝が池に達する。

糺に森には北へ向かう通りは4本ある。
逆三角形の右辺は下鴨東通り、左辺は下鴨西通り、ど真ん中を北進するのは下鴨本通り、その西側には下鴨中通りがある。

余談であるが、逆三角形の左辺、賀茂川縁には多くの桜の木が植えられていて、花の時期ともなればそれは見事である。
対岸から見ても良し、桜の下を歩くのも良し、あまり混雑しない穴場である。

先程の神社の燈籠と石柱のところに戻り、現在の神域へと入って行く。
神域の中央には「瀬見の小川」が流れていて、川を渡ったところに神社がある。
下鴨神社の摂社の河合神社と云う。
玉依姫(たまよりひめ)命を祀り、正式には「鴨河合坐小社宅(かものかわいにいますおこそべ)神社」という長い名前で、賀茂社の社家に祀られていた屋敷神だったと云われている。
元々はこの場所より少し南の賀茂川と高野川が合流する河原に祀られたことから河合神社と云われる。

河合神社の境内には、中世の随筆家である鴨長明(かものながあきら)の方丈の庵の復元が置かれている。
鴨長明は良くご存じの方丈記を著した人物である。

鴨長明はこの下鴨神社の禰宜(ねぎ)の次男として生まれている。
禰宜の嫡子は神職の道にはいるのが常道である。
長明も子供の時から修行の道に入ったのであった。

しかし「方丈記」の書かれたこの時代、即ち鴨長明の生きた時代は平安末期から鎌倉時代にかけての頃で、一口で云うと、源平の抗争による大動乱期に当たっていた。

長明の生まれた1155年には平清盛が平家一門の棟梁となったが、まだ力はなく、天皇家、特に後白河上皇が絡んで、都では動乱が数多く起こった。
4歳の年には保元の乱、7歳の年には平治の乱が起こったのであった。

そして15歳の年には清盛が太政大臣となって、初めて武士が政権を握り、政情は安定したかと思えたが、それも暫くの間であった。

横暴を極める平家に対して追討令が出され、平家は長門・壇の浦にて滅亡した。
長明33歳の年であった。
40歳の1192年には、源頼朝が征夷大将軍に任じられ、鎌倉に幕府を開いたので一応の安定を見たのであった。
しかしこうした戦乱に加え、安元の大火・治承の大風、寿永の飢饉・元暦の大地震などの天変地異も相次ぎ、世の中がますます混乱した時代であった。

長明は7歳で従五位下に叙せられていることからして、貴族の階段を順調に駆け上がるはずであった。
ところが20歳になる前に父親が亡くなってしまった。
さらに悪いことに、母が仕えていた二条天皇の中宮(高松女院)も没した。
このようなことから庇護者を失い、昇進のあてがなくなってしまったのであった。

そうなれば仕方がない。長明は自らの才能でのしあがろうとした。
そして和歌を学び、勅撰集『千載(せんざい)和歌集』に1首が入選した。
後鳥羽上皇に認められ、和歌所寄人(よりうど)にも選ばれた。

にもかかわらず、長明は3年後に和歌所を辞して出家してしまう。
父も務めた河合神社の宮司職を一族の有力者に奪われたことに絶望したとされている。
しかし、その不遇こそが、長明に不朽の名を与えることとなったのである。

宮中の席を辞した長明は出家し、洛北大原へ隠遁したのであった。
そして、大原を最初として居所を転々として、洛南日野に庵を落ち着かせたと云われる。
そこ日野で方丈記などを著したのであった。

余談であるが、この日野の土地は、長明がまだ若かりし頃、浄土真宗の開祖親鸞上人が生まれたところでもある。

隠遁した鴨長明の棲み家は分解組み立て式の移動できるものであった。
『・・・・
その家のありさま、世の常にも似ず。
広さはわづかに方丈(約3m四方)、高さは七尺が内なり。
所を思ひ定めざるがゆゑに、地を占めて作らず。
土居(つちゐ)を組み、うちおほひを葺きて、継ぎ目ごとに掛け金を掛けたり。

もし心にかなはぬことあらば、やすくほかへ移さむがためなり。
その改め作ること、いくばくの煩ひかある。
積むところわづかに二両、車の力を報ふほかには、さらに他の用途いらず』
と、方丈記には書かれている。

その場所が嫌になれば直ぐに引っ越すことができる。
いいのか悪いのか分からないが、それが長明の隠遁の生き方であったのである。
当時では、移動式は珍しかったのではと思われるが、どうであろうか?

最近、わが国では大地震や竜巻など、大きな天変地異が起こっている。
方丈記の時代の様子はどうであったのか? 見て見ることにする。

まず地震である。
『おびただしく大地震ふることはべりき。
そのさま、世の常ならず。
山はくづれて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。
土裂けて水湧き出で、巌割れて谷にまろび入る。
なぎさ漕ぐ船は波に漂ひ、道行く馬は足の立ちどを惑はす。
都のほとりには、在々所々、堂舎塔廟、一つとして全からず。
あるいはくづれ、あるいは倒れぬ。
・・・・・・・・・・・
その余波、しばしは絶えず。
世の常驚くほどの地震、二、三十度ふらぬ日はなし。
十日・二十日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、あるいは四、五度、二、三度、もしは 一日まぜ、二、三日に一度など、おほかたその余波、三月ばかりやはべりけむ。
・・・・・・・・・・・
大地震ふりて、東大寺の仏の御首落ちなど、いみじきことどもはべりけれど、なほこの度に はしかずとぞ。
すなはちは、人皆あぢきなきことを述べて、いささか心の濁りも薄らぐと見えしかど、月日 重なり、年経にしのちは、言葉にかけて言ひ出づる人だになし。
・・・・・・・・・・・ 』

と大地震の様子、余震のこと・・。そして、その時は人は無常を感じ、欲望や邪念の心の濁りも無くなったと思われたが、喉元過ぎれば忘れてしまうと書かれている。

余談であるが、東日本大震災の発生直後、多くの人が『方丈記』の世界との類似を指摘したと云われる。
元暦地震の記述の中で長明は、地震の最後に次のように書いている。
『すべて世の中のありにくく、わが身と住みかとの、はかなく、あだなるさま、またかくのごとし』地震に遭って、生命や住まいがいかに頼りないかよく分かったというのである。
東日本大震災の被災地以外の人でも、共感できる思いではないだろうか?

方丈記では、このように長明自身が体験した自然現象にまつわる当時のあり様が記されていて、当時の庶民の生活を知ることができる貴重な歴史資料になるとも云われている。

その後、方丈記についで『無名抄』などを著し、1216年、62歳でその命を閉じたのであった。
鴨長明の残した方丈記は、兼好法師の徒然草、清少納言の枕草子と共に、日本三大随筆と呼ばれている。
長明は自らの力でのし上がったのであった。

河合神社を後に北上し、下鴨神社本社に向かう。
下鴨神社は上賀茂神社(賀茂別雷神社)とともに賀茂氏の氏神を祀る神社である。
下鴨神社では、上賀茂神社の祭神である賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)の母の玉依姫命と、祖父の八咫烏の化身である賀茂建角身命を祀っているので、賀茂御祖(かもみおや)神社と云う。
尚、上賀茂の賀茂別雷命の父の火雷命(ほのいかづちのみこと)は、先ごろウオッチングした向日神社の祭神である。

下鴨神社にお参りし、葵祭の斎王代が禊を行う御手洗池を見て、このウオッチングを終了するが、「糺の森」の「ただす」と云う言葉が何に由来するのかということを考えてみる。
一つは神域であることから、「偽りを糺す」の意味と云われる。

次に両河川の合流点であることから、その合流した部分の洲が「只洲(ただす)」と云われたという説もある。
森の中に清水が湧き出ると云うことから「直澄」と云う説もある。
多多須玉依姫の神名に由来するという説もある。
太秦にある秦氏の氏神の蚕の社の「元糺の池」「元糺の森」から移された名前であると云う説もある。
諸説あり過ぎて、特定は難しい糺の森(ただすのもり)であり、その森の中で迷ってしまった感がある。

〔完〕