阪急京都線の十三(じゅうそう)駅と淡路駅との間に崇禅寺(そうぜんじ)という駅がある。
十三、淡路の駅は特急が停まる主要駅で何度も利用しているが、この崇禅寺は各停しか停まらないこともあり、下車したことは無かった。

「そ」の付く駅、崇禅寺で下車した。
この駅の京都に向かって右側の部分は、かつて柴島(くにじま)のウオッチングで訪れたことがあるので今回は割愛するが、その地域には大阪市の柴島浄水場がかなりの面積を占めている。
そして、府立柴島高校、淀川キリスト教病院があり、その向こうに阪急の千里線が走っている。
その線路の向こうは住宅街である。
柴島神社と云う仲哀天皇に纏わる神社もある。
そしてその住宅街の向こうは淀川である。

崇禅寺駅は前回見た時もそうだったが工事中である。
高架工事をしているとのことである。

駅出口を西へ出たところに交番がある。
そして交番の横の道はカラー舗装がされている。
このような道は何か謂れのある道なので、この道を辿ってみることにする。

北へ北へと住宅街の中を進む。
右手に「歴史の散歩道」との標柱が建っていて、付近の名所の名称が書かれている。
「崇禅寺」「中島惣社」、今回はこの歴史の散歩道を辿ってみよう。

その標柱の前に崇禅寺の駐車場への入口がある。
駅名の由来になった寺である。
境内へ入ってみる。
禅宗曹洞宗の寺院である。

崇禅寺は奈良時代天平年間に僧行基によって創建された寺である。
室町時代に足利6代将軍、籤将軍で知られる「義教(よしのり)」が京都の宴席で播磨の赤松満祐(みつすけ)一統に討たれるという「嘉吉の乱」が起こった。
赤松一統は播磨に逃げ帰る途中、この崇禅寺に義教の首を葬ったとされ、その首塚が現存している。

その後、管領細川氏によって寺領が寄進され、細川氏の菩提寺になった寺である。

関ヶ原の戦いの直前、大坂の細川屋敷が石田三成の手の者に包囲され、夫人「細川ガラシャ(玉)」が家老の手により命を全うし屋敷に火を掛けたが、その焼け跡からザビエルの弟子オルガンチノが遺骨を拾い集め、この細川の菩提寺に葬ったと云われる。
そのようなことから、義教の首塚の隣にガラシャの墓も現存している。

その他、この寺の境内の馬場で仇討を目論み、返り討ちに遭ってしまった遠城兄弟の墓もある。
ご住職にご朱印を頂き、少し話を聞いて境内を退出したのであった。

静かな境内の上空をジェット機の爆音が時々通過する。
丁度伊丹空港への進入路にあたっているのであろう。

先程のカラー舗道は寺の南側の門前を通過する。
山門がある。

その横には「摂津県 豊崎県 県庁所在地跡」の石碑が建っている。
西に回り込む。
西門前からカラー舗道は西に向かっているので、これを進む。

住宅街の中を進む。
暫く行くと今度は神社がある。

「中島惣社」と云う。
この神社も創建は古い。
飛鳥時代と云われている。
孝徳天皇が難波豊崎宮に遷宮した時に五穀豊穣を祈願し、田園を下賜し神領としたとの言い伝えがある。

後の大坂の陣で社殿は悉く灰燼に帰したそうで、絵図面と神額だけが残り、中島郷の中州にあったということ、神額には中島惣社と書かれていたことだけが分かったとのことである。

明治時代末ごろに、北中島村と西中島村の区画整理に伴い、近隣在郷48村の神社18社を合祀して、社名も「郷社中島総社」と改めたそうである。

神官にご朱印を頂き、神社を後にする。
南に向かう参道にはカラー舗装がされている。
これを進む。
参道は大阪市立啓発小学校の裏を通っている。
途中赤い鳥居を潜る。
常夜燈も建っている。
最終的に広い道と交差し、大きな石状の鳥居がある。
一の鳥居であろう。
カラー舗装もここまでである。

道の向こうには大阪市立中島中学校がある。
神社と同じ側にはすこし入り込んで市立の東淀川体育館がある。
この体育館にはかつて新大阪駅から来たことを思い出した。
新大阪の駅はもう近い。
この場所で崇禅寺駅付近の探訪を終了し、新大阪駅に向かったのであった。

〔そノ駅 完〕