「せ」の酒、探した結果「雪中梅」を手に入れた。
目的の酒は、その頭文字の順番が回ってきた時に探しに行くので、なかなか見つからない時がある。
酒は季節商品の要素があるので、予め見当をつけていても、いつでもどこでも手に入る訳ではないとの実感を得ている。

さて手に入れた「雪中梅 純米酒」は明治29年創業の新潟の上越市の「MY酒造場」の醸造である。
データはアルコール度数15.5%、酵母は協会7号及び10号、原料米は五百万石、精米歩合63%、日本酒度-3.0、酸度1.7、アミノ酸度1.5である。
データから見てこのシリーズでは珍しい日本酒度マイナスの甘口の酒である。

何故甘口なのか?
それは、この地は農業地域であるが、同時に豪雪地域であって、キツイ一日の労働を癒してくれるのは甘口の酒であるとの昔からの習慣がある。
疲れた時には甘いものが一番である。
新潟では淡麗辛口の酒が代表であるとの謂れの中、この地方では甘口が好まれ、多くの酒蔵が甘口を醸造している。
この蔵でも敷地の超軟水の井戸水で柔らかい口当たりを実現していると云うことである。

能書き説明はこれくらいにして、早速頂いてみる。
流石に新潟の酒、まずは濃厚である。
そして甘口であるので喉越しの抵抗感はない。
スッキリと頂いたのであった。
これなら魚を主体とした肴には、良く合いそうである。

蔵元によると、今回手に入れた「雪中梅 純米酒」は何十年ぶりかの新製品と云うことである。
新潟県で開発された酒造好適米五百万石とその精米歩合の調整、それに蓋麹法による手間暇のかかる麹造り、そして超軟水井戸水の使用を特徴とした新開発である。
自家の井戸水を使用しているため、水の量には限りがあり沢山を造ることができないのは残念である。

余談ではあるが、以前にも述べたように、酒の新開発は驚くほど時間が掛かる。
それは醸造のサイクルが1年でだからである。
一つの条件を選んで1年、条件を変えてまた1年、納得いくまで最低でも数年は掛かってしまう。
新開発には並々ならぬ気力が要るのである。

新潟には「三梅」の飲み比べと云うのがある。
「雪中梅」「越の寒梅」「峰の白梅」である。
それぞれ有名な酒であるが、さて、どちらがどうなのか?
機会があれば試してみたいものである。

このMY酒造場立地の三和の区域からは外れるが、新潟の上越市と云えば、戦国時代の名将・上杉謙信公の居城として知られる春日山城があったところである。
国の指定史跡となっていて、日本百名城にも数えられている。

この城、南北朝時代からあったそうであるが、それを広大な城に整備し、難攻不落の城と云われるようになったのは、謙信とその養子景勝の力によるものである。

城の本丸跡は標高180mもあり、日本海や城を取り巻く周りの平野や山並みを一望でるとのことである。
また城跡の中腹には、謙信の銅像があるそうである。

上杉謙信は、越後守護代であった長尾為景の末子として誕生し、幼名を虎千代と名乗る。
虎千代6歳の時、兄の晴景が病弱の父に代わって家督を継いだので、虎千代自体は仏門に入り、城下の林泉寺にて、厳しい仏門の修業と文武の道を学んだ。

謙信の戦国武将としては珍しい深い学識、厚い仏心はこの時代に培われたといわれる。
謙信はその後、14歳で元服し長尾景虎と名乗り、病弱だった兄に代わって家督を継いで越後守護代となった。

しかしこの家督相続に、近隣の武将たちが景虎を若輩と見て攻撃を仕掛けたが、父為景の時代から懇意にしている近隣の城主達の助太刀もあって敵を見事撃退し、初陣を飾ったのであった。

その後、武田信玄や北条氏康、織田信長といった戦国時代の名将と戦を重ねることになるのは良くご存じのところである。
しかしその戦いは欲によるものではなく、義を重んじた戦いだったと云われている。
うち5回もの戦さをした信玄との川中島の合戦は有名である。
そして、その敵対していた武田信玄が今川氏真によって塩を断たれた際、今川のやり方を批判し、武田に塩を送ったと云う話はあまりにも有名で、そのエピソードは諺にもなっている。

謙信は織田信長と同じ49の歳で、脳溢血により亡くなっている。
遺骸には鎧を着せ太刀を帯びさせて甕の中へ納め漆で密封したと云う。
この甕は上杉家が米沢に移った後も米沢城本丸の一角に安置され、明治維新の後、歴代藩主が眠る米沢城下の御廟へと移されたのである。

謙信の短い人生は戦さの連続で、生涯未婚を貫くなど、戦国武将としては異色の人物であったのである。

謙信の辞世は、
「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」
であった。

〔せノ酒 完〕