「せ」の順番になった。
ここは大津市の「膳所」という所をウオッチングしてみることにする。

大津市は県庁所在地であるので街全体は大きい。
恐らくは大ぐくりのブロックがあるのであろう?
堅田とか坂本とか浜大津とか…。
膳所も大きなブロックであろうかと思われる。

膳所に行くには良くは分からないが、JR東海道本線の「膳所駅」で下車するのが妥当であろう。
下車すると、駅前に京阪電車の石山線の京阪膳所駅もある。
住所は「馬場2丁目」である。
駅前の商店街を歩いて行く。

実はこの機会に行きたいところがあった。
義仲寺(ぎちゅうじ)と云う寺である。
5分位歩くとその寺に到着した。
門構えからしてそう大きくない寺である。

この寺の創建については良くは分からないそうであるが、木曾義仲が源氏の内部争いの末、この辺りが最期の地となった。
その墓所の近くにが巴御前が草庵を結んで供養したのが起こりと云われている。
それが寺となり、義仲寺と呼ばれるようになった。

その後荒廃したが、同じ源氏のである近江の支配者、近江源氏佐々木氏の手によって再興された。
当初は石山寺の支配下であったが、のちに園城寺(三井寺)の支配下になった。
俳人松尾芭蕉もこの寺と琵琶湖を好んでいたので、寺内に無名庵という庵を結び、度々訪れたのである。
芭蕉が大坂で亡くなった時、芭蕉の意志により、遺体は弟子たちの手によって淀川を遡り、この寺運ばれ、遺志により義仲の墓の隣に葬られたのである。
島崎又玄の句「木曽殿と 背中合わせの 寒かな」が有名な句として知られる。

境内には、芭蕉翁を祀る「翁堂」を始め、句碑や義仲の墓、巴御前の墓、芭蕉の墓が所狭しと並んでいる。
ご朱印を頂き、義仲寺の話を聞いて見た。
住職の話によると、江戸期のこの寺の寺領はかなり広かったそうである。
現在のJRの線路を越えて、山の裾野辺りまであったと云うことである。

義仲の話になり、義仲には腹心の部下である今井兼平がいて、彼も義仲に次いで少し南の粟津の地で亡くなったそうである。
墓があるから是非行って見なさいと示唆された。
それなら行かないわけにはいけない。
ウオッチングの最後をそこと決めて、義仲寺を後にしたのであった。

寺の前は旧東海道であることに気付いた。
これならウオッチングし易いなと思い、その東海道を南の瀬田の唐橋方向に歩くことにした。

暫く行くと「膳所城北総門跡」と云う石碑が建っている。
恐らくはここから先は膳所城の城下であろう。
関所か何かのチェックする場所であったのであろうかと思われる。

その先の南に、取り付き道路があって学校の校門が見える。
滋賀大学の付属の小・中学校である。
その先の右手に「石坐(いわい)神社」がある。
由緒ありそうな神社であるので、立ち寄ってみる。

この神社は、大津宮を造営した天智天皇が琵琶湖の神々を祀ったことにことに始まるらしい。
元々は違う場所にあったらしいが、持統天皇がこの場所定め、父・天智天皇を始め、その子・大友皇子等を祀ったと云われる。
そのような謂れのある神社である。

膳所の神社が連合して、膳所5社祭りと云うのを行うと云うポスターがある。
その5社と云うのも分かった。
できれば訪れてみよう。
今回のウオッチングの課題も出来たのであった。

旧東海道を歩く。
途中に立派な長屋門の寺門の寺がある。
「響忍寺」という真宗大谷派の寺院である。

進んでゆくと「和田神社」と云うのがある。
5社の内の2社目である。
本殿は一間社流造檜皮葺で国の重要文化財である。

和田神社を後にして、更に進む。
琵琶湖に架かる近江大橋の袂に出る。
膳所城址はこの横である。
陸橋を渡り、琵琶湖沿いに出て、湖上に設けられた回廊を歩いて膳所城址に入る。

現在は公園として活用されているので、その関係の建造物はあるが、城の関係では「膳所城址」という石碑が建っているのみである。
但し、模擬の城門、模擬の櫓や塀が設けられていて、多少の雰囲気は醸し出してはいる。

この城は、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が翌年、瀬田の唐橋を守る東海道の押さえとして、そして湖上交通の監視として、大津城を廃し膳所崎に城造りの名手藤堂高虎に築かせたものである。
四層の天守もあったと云われている。

余談ではあるが、大津城は坂本城に代わる城で、京極高次が城主であった。
浅井家のお市方の次女・初の嫁ぎ先でもある。
関ヶ原の前夜、関ヶ原に入ろうとする西軍一万五千を通過させまじと良く防ぎ、釘付けにしたと云われている。

当初は大津城主戸田一西を入城させ、ここに膳所藩が成立したが、その後は少しの入れ替わりがあったが、最終的に本多氏の居城となり、明治維新まで続いた。
明治になって、解体、移築が始まり、各所に文化財として残っている。
尚、城跡から見える近江大橋、その向こうの近江富士はことのほか美しい。

城の正面の広い通り(恐らくは大手通りであろう)を山側(西方向)に向いて進む。
住所は丸の内町や本丸町となる。
少し行くと旧東海道と交差し、右手北側には綺麗な旧町屋も見られる。
「膳所城中大手門」の石柱もある。

直ぐに膳所神社に行きあたる。
この神社は元々は天智天皇時代の御厨所とのことであり歴史は長い。
正面の神門は膳所城の本丸大手門が移築されたもので、重要文化財である。
5社の内の3つ目である。

今度は近くの滋賀県立膳所高校へ行ってみる。
膳所藩の藩校・遵義堂の跡地に建てられた高校である。
校内に「膳所藩遵義堂跡」と云う石碑も建っている。

旧東海道まで戻り、南へ歩く。
膳所商店街の電柱看板も上がっている。
旧町屋も見られる中を通って、篠津神社の前に到着した。
ここの神門は膳所城の北大手門を移築したもので、これも重要文化財である。
早速お参りしたのであった。
ここは素盞嗚命(スサノオノミコト)を祀る神社であるが、創建は室町時代までは遡れるがそれ以前は不明であるとのことである。
これで5社の内4社に参拝したことになる。

引き続き、旧町屋、寺院などを見ながら進む。
京阪電車の瓦ヶ浜と云う駅も通過する。
次に若宮八幡宮前に到着する。
ここの神門も膳所城の遺構で、犬走り門とのことである。
これは大津市の重要文化財となっている。
天武天皇の時代に創建されたもので、宇佐八幡宮に次いで古いものだそうである。

これで5社を完拝したことになる。
その後、幕末の膳所事件で曰くつきの丹保の宮を見て、湖岸の自動車道に出て、湖岸縁を粟津へと向かう。
近江八景「粟津の晴嵐」で有名な松林である。
松の木が綺麗に整備され、湖岸は遊歩道となっている。

途中の粟津中学校前から街中に入り、石山駅方向に向かうことにする。
学校の裏あたりからは工場街となる。
半導体のR社、N電気硝子の大工場が並んでいる。

それを過ぎると今井兼平の墓がある。
最初義仲寺で見学を勧められた木曽義仲の腹心の部下の墓である。

兼平は義仲軍が義経、範頼軍にここ粟津に追い詰められ、義仲が打ち取られたのでその後を追って、この先の山中で自害したのであった。
膳所藩主がその地を探し出して墓を建てたが、後代の藩主が参拝の便を考えてこの地に移設したとの成行きである。

墓を見学して、このウオッチングは終了である。
無事石山駅に到着したのであった。

さて、膳所の由来である。
先ほど出てきた膳所神社は元々、近江朝廷天智天皇の時代の御厨所であった。
食事の膳を供するところと云うことで、膳所と書かれたのは間違いがない。

神社のところが膳所で街は膳所前と云われたのであろう。
「ぜんしょぜん」が詰まって訛って、「ぜんぜん」から「ぜぜ」となったものであろうと思われるが、如何なものであろうか?

難しい地名の膳所である。

〔完〕