最終となる「す」の酒は、広島の酒「酔心」に出会った。
最初の酒も広島の西条の酒であったので、広島に始まり広島で終わることになる。

広島の酒は柔らかくて美味いと思う。
その理由はこの地方に湧き出す軟水の力である。

特にこの「酔心」の酒蔵のある広島県の中央部には「鷹の巣山」の山麓の「ブナ」の原生林に端を発するミネラルを殆ど含まない超軟水の伏流水がある。
この軟水での酒造りは酵母が時間をかけてゆっくりと醗酵するので、この長期低温発酵の下、酵母は芳しい香の源「エステル」をふんだんに作る。
そしてそれがスッキリした中にも、ふくよかで上品な甘味と旨味を醸し出すのである。

更に広島には大きな市場があったことによる洗練である。
その市場とは何か?
それは明治以降の海軍軍港の存在である。
事の評価は良し悪しであろうが、戦地に大量に美味しい酒を届けるという広島の酒蔵の使命が、現在の美味しい酒に引き継がれていることは間違いがない。

先日、広島西条で開かれた「酒まつり」に行ってみた。
全国の酒蔵の酒を飲むことがができる。
全国を飲み比べすることができるのである。

飲み比べてみて分かったが、広島の酒は柔らかい。
いくら飲んでも飲み飽きることは無い。

しかし味は人の好みなので、何とも言えない。
辛口ファン、濃厚ファン、色々とあるので、各地にいろんな酒があって、それで世の中上手く回っているものであると思われる。

さて肝心の「酔心」であるが、広島は三原市にある「YN本店」の醸造である。
三原は瀬戸内海の本州側にあって、古くから陸海交通の要地として知られている。

三原は戦国時代、毛利元就の三男である小早川隆景が築城した三原城、別名「浮城」を中心に発達した城下町である。
その後、福島正則の養子正之が入り、更に浅野忠長が入り、広島藩の支藩として幕末まで続いた。
現在その城跡は国の史跡とはなっているが、JRや新幹線の三原駅の下に組み敷かれているのは残念なことでもある。

さて「酒」である。
今回入手したのは「酔心 軟水の辛口 純米酒」である。
データは、原材料:米(国産)・米こうじ(国産米)、アルコール度数14.0~15.0度、精米歩合65%、日本酒度+3.0、酸度1.7、アミノ酸度1.5である。
この数値を見てると少し濃厚であり、少しの辛口であることがわかるが、どうであろうか?

頂いてみて分かったが、酸度は高くて濃醇である筈であるが、そうでもなくスッキリとしていて、ワイン感覚で飲める。
また、そんなに辛口ではない。どちらかと云うと甘口である。
このような酒は料理に合わせて、素直に飲める酒であろうと思われる。

このシリーズでは比較的濃厚な酒を飲んで来たので、最後にこのようなスッキリは少し物足りない感じがするが、スッキリとお開きとなるので、良しとしたい。

横山大観という日本画の巨匠がいる。
画伯の絵画は、島根の安立美術館を始め、多くの美術館で所蔵されている。
実はこの横山大観が終身愛飲した酒がこの「酔心」である。

横山大観は日に二升三合、晩年でも一日一升は飲んでいたという酒豪である。
しかしこの大観、若い頃は全くの下戸で猪口2、3杯で赤くなっていたと云われている。
それが、当時の東京美術学校の校長であったこれも酒豪の岡倉天心から、
「一升酒ぐらい飲めなければ駄目だ」
と言われたのをきっかけに、酒に強くなっていったとのことである。

当時、YN本店の東京販売店にいつも酒を買いに来る上品な女性がいた。
どなたかと店の人が尋ねたところ横山大観の夫人だと云う。
興味を抱いた当時のYN本店の社長は、大観の自宅に出向き酒の話をした。

名人は名人を知るということか、たちまち意気が投合した。
「酒造りも、絵を描くのも芸術だ」
との大観の言葉に社長はいたく感動し、大観に一生の呑み分の酒を届けることを約束したと云う。

その約束以来、社長は毎年四斗樽で何本も送り続けた。
その代償に、大観からは毎年1枚ずつ自分の絵を送り、その結果、YN本店には大観の記念美術館ができることになったと云う。

大観は89歳で他界しているが、人生後半の50年は飯をほとんど口にせず、酒と肴である少しの野菜だけで済ませていたと云う。
亡くなる二年前、薬や水さえ受け付けなくなくなって重体となった時でも、この醉心だけは喉を越したと云う。
それをきっかけに翌日からは果物の汁や吸物などが飲めるようになり、そして一週間後には、お粥を食べれるまでになったと云われている。
大観にとって、正に「酒は百薬の長」であった。

大観は酒を大量に愛飲したが、しかし酒を呑んで筆を執ることは一度もなかったと云う。
「私は大酒呑みではなく、ただ酒を愛するでけです。酒徒という言葉がありますが、私はそれだけです」
と人に話していたと云われている。

〔すノ酒 完〕