京都市の伏見区に直違橋と云う住所地がある。
同じ京都市の東山区の五条通りから南の方、伏見に向かって伏見街道が通っている。
この東山区内の街道の両側の町名は全て本町で、1~22丁目まである。

この伏見街道が伏見区に入ると、その場所には伏見稲荷神社があるため住所地は伏見稲荷となるが、稲荷の少し南から住所地は深草直違橋××丁目となる。
そしてその住所地は、ずっと南の藤森神社の手前まで続く。
直違橋11丁目~2丁目、北1丁目、南1丁目、片町である。

今回の街角ウオッチングは伏見街道探歩と重なる部分が多いが、視点を変え直違橋の住所地を順番に見てみることにする。

スタートは伏見稲荷の大鳥居から少し南、JRの線路を渡ったところの直違橋11丁目である。
さすがに秀吉の時代から栄えた街道と街である。
道の両側には虫籠窓の町屋が見られる。
市内の他の地域よりも、このような町屋が多いのも直違橋の特徴であろう。
勿論、新しい住宅や商店もある。
順番に眺めながら進んで行く。

11丁目から6丁目までは、このような風景が連続するだけで、取り立ててここで紹介するほどのものは見られない。

5丁目まで来ると変わったものがある。
まず左手にチャペルのようなものがある。
カトリックの教会である。
その隣には綺麗な建物がある。

聖母女学院と云う総合学園の本館である。
恐らく、日本の学校で1、2を争う綺麗さであろう。
この建物は先の太平洋戦争が終わるまでは旧陸軍第16師団の司令部本館であった。
爆撃にあっていないので、そのまま残っているのである。

古い話になるが、日露戦争が集結した後も軍備の拡張が進められ、新たに師団が新設された。
その一つがこの伏見深草の第16師団である。
師団司令部、騎兵連隊、砲兵連隊、輜重兵隊などが新設されたのである。

この師団創設に伴い、京都の市街地とを結ぶ第一軍道、第二軍道、師団街道なども整備が行われた。
現在でも当時の道路名がこの近くに残って使われている。
またこの師団司令部と師団街道の間にある琵琶湖疏水を跨ぐ橋、師団橋もある。

戦後、師団本部は学校法人聖母女学院に、また近くの師団練兵場は龍谷大学と京都府警警察学校へと移管され、利用されている。

この本部跡の聖母学院であるが、元々は大正期の大阪での創設である。
フランスの宣教女達が、あの光秀の娘・細川ガラシャの細川屋敷跡に建てられたと云われる大阪玉造カトリック教会にて語学などの個人教授を開始したのがこの女学院の始まりである。
その後、昭和の初期、寝屋川の香里園に移転し、その姉妹校として、戦後この地に京都聖母女学院が開校したという経緯となっている。
学院には男女共学の小学校と女子だけの中・高校、それに女子短期大学がある。

余談であるが、このように街角をウオッチングしていると、思いがけない歴史的な繋がりを発見することがある。
ガラシャ、細川忠興の屋敷跡に建てられたカトリックの学校が現在までも繋がり、それが陸軍第16師団とまで繋がっている。
正に歴史の妙である。

聖母女学院を後に、更に進む。
直ぐに名神高速道路の下を潜る。
潜った所が直違橋3丁目という住所地である。
高速道路の横に深草小学校がある。

小学校を過ぎると、山科勧修寺の傍を通って山科と伏見の境界の山を越えてくる自動車道と交差する。
この辺りの住所は直違橋北1丁目である。

自動車道との交差する手前には「軍人湯」という銭湯であろうか?看板も上がっている。

また西岸寺という由緒のありそうな寺がある。
説明によるとこの寺は、浄土真宗の日蓮上人に関係した寺で、「親鸞聖人御旧跡」「玉日姫君御廟所」「九条関白兼実公遺跡」とうい謂れのありそうな石柱も建っている。

門前の説明看板を見てみる。
この寺は平安時代の末、当時の関白藤原忠通(ただみち)が建てたと伝えられる法性寺の小御堂が建っていたところで、忠通の子・九条兼実がこの地に逗留し、花園御殿と呼ばれた。

親鸞聖人は兼実の娘、玉日姫(たまひひめ)を妻として迎えたが、親鸞が越後に流されてからというもの、玉日姫はこの小御堂を守り親鸞聖人の安否を気遣いながらここで亡くなった。

その後、玉日姫に仕えていた田村光隆が親鸞聖人の弟子となり、九条家より小御堂の寄進をうけ、西岸寺を開き、玉日姫のお墓を守ったのであった。
尚、西岸寺の寺名は、この地にしばしば訪れた後白河法皇の御製に因んでいる。

また、通りの向かいには、力餅食堂と云う京都では良く見られる大衆食堂もある。

自動車道を渡って進むと小さい川である七瀬川に架かった橋を渡る。
橋の名前は伏水第四橋、「直違橋」である。
なぜ直違橋かと云うと、川と伏見街道は直交していないので、川に対して橋が斜めに架かっているという謂れである。
この橋が街の名前の起源である。

橋の周りにも寺院がある。
誠心寺、了峰寺である。
行ってみたいが、先を急ごう…。

右手に「ふしぎどう」と云う店がある。
普通の洋服屋さんのようであるが、変わっているのは名前だけなのかな?
この辺りは直違橋片町という。

更に進む。
そろそろ、街も別の名前に変わるころである。
暫く行くと左手に森が見えてくる。
近くまで行くと「藤森神社」の横からの参道であることがわかる。

直違橋のウオッチングの最後に神社を見て行こう。
実はこの神社、先日の恵美酒町のウオッチングで、名水巡りをした時に訪れた神社である。
名水は「不二の水」、訪れた時も3~4人の行列ができている程の人気のある水である。

この神社の創建はかなり古い。
神功皇后の創建で、約1800年も前である。
祭神は素盞鳴命(すさのおのみこと) を主祭神に、皇室関係者が祀られている。
舎人親王、早良親王などは有名どころである。

この神社、勝ち運の神様としても良く知られる。
馬の字を裏返したお札がお守りになるらしい。
特に競馬関係者や競馬ファンのお参りがあり、信仰が厚いと云われている。

またこの神社、境内に3,500株にもおよぶ紫陽花が咲くことでも有名である。
訪問時期が少し前だったので残念であったが、もうこの時期になれば咲き始めていると思われる。

この藤森神社の東側が京都教育大学である。
ついでにキャンパスを覗いてみた。
単科大学なので、広い土地にゆったりと校舎とグラウンドが整備されている。
直違橋のウオッチングはここで終了となった。

さて、直違橋であるが「すじかいばし」と読む。
こう読めば意味は分かり易い。
普通は筋違と書くので、難なく読め、意味は分かるのであるが…。
このような漢字がどうして当て嵌められたのかは、分からない。

最後に余談である。
先ほど陸軍の師団本部があったことを説明した。
この師団本部の効用は、酒処伏見の興隆にも及んでいる。

日露戦争でロシアに勝利したことにより、日本の軍隊は諸外国から一流と認められ、拡大の一途を辿った。
勿論、羽振りも良くなった。
軍には酒がつきものである。
内地の駐屯地の用だけでなく、一旦戦地へ行くとなると大量の酒が要ることになる。

伏見の酒は、その陸軍御用達を上手い具合に手に入れたのであった。
そのお蔭で江戸時代以降沈下傾向にあった伏見の酒は、これで弾みが付き盛り返したものと云っても過言ではない。

〔完〕