大阪府には「新喜多」と云う住所地が3つある。
大阪市城東区の新喜多と新喜多東の2つ、そして少し離れて東大阪市の新喜多である。
この3ヶ所、城東区のは同じものであろうが、東大阪市のとは同じなのか?、偶然の一致で違うものなのか?興味の涌くところである。

まず手始めに、東大阪の方からウオッチングしてみよう。

新喜多に行くには、JRのおおさか東線の「高井田中央駅」もしくは地下鉄の「高井田駅」で降りる。
降りて中央大通りを少し東へ行き、長瀬川という川の整備された土手を南へ少し下った辺りから東大阪市の新喜多は始まる。
新喜多と云う住所地は、この長瀬川の両側の街で、右岸が2丁目、左岸が1丁目である。
この長瀬川は南から北へと流れている川で、大阪市城東区の放出駅の南側で第二寝屋川に合流する川である。
この長瀬川に新喜多の秘密があるのだが、それは後程わかることになるのである。

まず川の右岸(東土手)を歩く。
長瀬川は水門も良く整備されている。
少し広い公園のようなところから新喜多2丁目が始まる。

綺麗に整備された川べりの遊歩道を進む。
マンションがある。
その先は東大阪市立新喜多中学校である。
工場が連なった長屋もある。

川沿いに「東大阪歴史の道」という案内板が建てられている。
その案内板に「新喜多新田」について書かれている。
『江戸時代の中ごろまで、大和川は河内平野を北へ流れ、大雨が降るたびに洪水を起こす川であった。
宝永元年(1704年)に柏原市から西に大坂湾に流れ込む新川が掘削されると、水量が激減した旧川筋では、川床を埋め立てた新田が多数開発された。
新喜多新田はその一つで、開発を請け負ったのは豪商鴻池新七、元請けである。
そしてその開発に携わったのが、鴻池新十郎、鴻池喜七、今木屋多兵衛の3名で、それぞれ名前の頭文字をとって、新喜多新田と名付けられたのであった。
そしてこの新田は、東大阪市内では、放出駅の所まで広がっていた』

この説明で明らかである。
新喜多と云うのは新田の名前から来ている。
そしてその名前は3人の名から合成されたものである。
放出から先は大阪市内なので、それについては言及せずと云うことであろうか…。

これで新喜多の由来は分かった。
更にウオッチングを続けることにする。

暫く行くと旧の伊勢本街道と交差する。
その南にこの辺りでは一番大きな建物がある。
良く見てみると「ベル・・・」という結婚式場である。
その南側で府道702号線と交差する。
伊勢本街道に対応する自動車道である。
この道を行けば、生駒山の暗峠を越えて、奈良から伊勢神宮に行くことができる。

ここまでが新喜多2丁目である。
川の左岸の1丁目に直ぐに行けばいいのだが、歴史の道の案内に従って、横道にそれてみる。

南へ行くと鴨高田神社と云うのがある。
住所地は高井田元町。
かつて住んでいた鴨氏の氏神だったそうで、創建は7世紀末。
この辺りは低湿地の中の高台で、高井田の名が付けられている。
この付近はもう近鉄奈良線の河内永和駅の最寄である。

その北に長栄寺と云う寺もある。
大阪府の史跡である。
門前の案内によると、聖徳太子の開創にかかり、後、荒廃久しかったものを江戸時代に、高僧慈雲尊者の説法道場として再興され、現在に至っているそうである。
ご朱印を頂き、寺を後にしたのであった。

伊勢本街道に向かい、新喜多1丁目の探索に戻ろう。
戻る途中、旧大和川の渡しがあったところに祀られている渡シ地蔵を発見、新喜多の街中に入ると、伊勢本街道に祀られている高井田石仏を発見した。

更に北へと行く。
住宅と工場が入り組んだ街区である。
徐々に工場が多くなる。
工場長屋もそこここに見られる。
さすがに中小企業の街、技術の街の東大阪である。

知ってる会社の名前が無いかと思い、表札を眺めながら歩くが、見当たらないのは残念であった。
そうこう歩いているうちに、新喜多の街を脱し、高井田駅に戻ってきたのであった。

次は城東区である。
放出駅から歩いても良いのだが、遠そうなので西隣の鴫野(しぎの)駅から歩くことにする。
下車し、先ず北へ向かう。
新喜多東の住所地に到着したので右折する。
住宅街の中へ入るとそこには水路沿いに公園が造られている。
「楠根川跡緑陰歩道」という。
綺麗に整備されている。
この緑道を南へと歩く。

広い道路と交差する。
交差点に、屋上に鐘楼を設けた真宗系の寺院がある。
とても珍しい。
この先は別の街区、鴫野である。
広い道路に沿って今度は東へ進む。
マンション街である。
新喜多東公園と云うのもある。

行きすぎると新喜多東を外れてしまうので、マンションに沿ってJターンをし、今度は西北へ細い道を歩く。
この辺りはやはりマンションと個人住宅が並んでいる。

第二寝屋川に架かっている橋の傍を通る。
この端を北に渡ると、そこに今福小学校があり、その校門横に「旧野崎道の跡」と云う石碑がある。
かつて街道探歩で訪れた場所である。
ここから東西に野崎街道が通っている。

新喜多東の街中へ戻る。
「新喜多新田会所跡」と云う石柱と説明パネルが建てられている。
新喜多新田を経営するための会所跡である。
説明には、新喜多新田は京橋辺りから東大阪市域までに及ぶ大変広い新田であった、とされている。
東大阪の新喜多と繋がっていた同じ新田であったとの説明である。
これで納得である。
旧大和川を埋め立てた新田を新喜多新田と名付けたのである。

少し前に我孫子をウオッチングした時に、新大和川が造られたことにより、遠里小野や浅香という街が分断されたと云う事例があった。
それを罪とすれば、この新田の誕生は功であろう。
川の付け替えによる街の功罪である。

新喜多東から第2寝屋川に架かっている橋、新喜多橋を渡って川向うへ行く。

川の向こうは新喜多という住所地である。
新喜多の街の北限には野崎街道が通っているので、街道沿いを西に歩いてみることにする。

この旧街道は周辺より少し高くなっている。
川の堤であったのでそうなっているのであろう。

旧町屋も見られる。
庄屋であったと思われる大邸宅もある。
右手に少し降りたところに神社がある。
住所地は蒲生4丁目で域外であるが、訪れてみよう。

行って見ると「若宮八幡大神宮」、由緒が有りそうである。
境内の由緒書きによると、この辺りの村民が仁徳天皇の遺徳を偲び、勧請創建せしめたとある。
また蒲生とは、この辺りの名産に蒲穂あり、色美しく、尺長く、良質のものが出来たとされ、それが蒲生の地名の起こりであるとされている。

更にこの神社には大坂の陣の折り、佐竹義宣隊が本陣とし、戦勝を祈願したとある。
しかしその時「心なき軍兵共の為、神木たる楠の大樹は地上より伐り倒され篝火に用いられた。
戦後佐竹家より矢を献納して贖罪の祈願をなした。
とされている。

ご朱印を頂き野崎街道を進む。
左手に小学校「大阪市立聖賢小学校」がある。
学校の向こう側はJRの線路なので、いつも向こうから見る小学校である。

西に進む。
JR城東貨物線の踏切を渡る。
その先に、高栄寺と云う変わった風貌の寺がある。
手造りのようで、動物愛護の寺とある。

更に進む。
京橋駅が近くなってきたのか、マンションが迫ってくる。
程なく京橋駅の東側の踏切に到着した。
ここの住所地を見ると、城東区新喜多1丁目とあった。

これで新喜多(しぎた)のウオッチングは終了である。

なぜ「しぎた」と読むのであろうか?
3人の名前を合わせたのなら「しんきた」が妥当である。

この新喜多の隣に鴫野(しぎの)という、かつての渡り鳥シギの群生地だった地名がある。
その地名に合わせて「しぎた」と読んだのは、大坂人一流の洒落であろうか?

〔完〕