「こ」の番になった。
歴史的に良く知られる京都府の長岡京市の「神足」というを地域を東からウオッチングしてみることにする。
神足に東から入るにはずっと東にある伏見区の近鉄・地下鉄の竹田駅からバスに乗るのが便利であるので、今回はそのルートで行くことにした。

竹田からのバスは、鴨川、桂川を渡り、禅宗曹洞宗の道元禅師の誕生寺を左に見て、久我(こが)、羽束師(はづかし)の街中を通り、京都府公安委員会の自動車運転免許センターを経由して長岡京市に向かう。
JTの大きな工場前を過ぎたあたりから神足が始まるが、この辺りは工場街なのでウオッチングはパスをする。

そしてバスは南へ、名神高速道路沿いの国道171号線を下って、高速道路を潜るトンネルを抜ける。
抜けたところのバス停でバスを降りウオッチングを開始することにする。
停留所は大工場の前にある。
「PANA社」の半導体の事業所である。
長岡京市には企業の大工場が数多くある。
M電機の工場とSビールの工場はかなり大きいが、それに次ぐくらいの広さである。

ここから西方向、長岡京駅前に繋がる道を歩く。
長岡京駅はかつては「神足駅」という名称であったが、18年前に市の名前に合わせて駅名を変えたものである。

駅に行くまでの間に、小畑川を渡る。
橋を渡って南側に学校がある。
学校の前を通ってみよう。
長岡第九小学校という校名である。

学校の塀に沿って右へ折れる。
長岡京市立地域福祉センター「きりしま苑」というのがある。
きりしまと云う名は、恐らくは長岡天満宮にあるキリシマツツジから付けたものであろう。
その横に神足公園があり、その公園の向こうには何やら説明パネルがある。

パネルには「勝龍寺城の土塁と空堀」とあり、詳しい説明が書かれている。
このパネルの後ろの竹藪の中には、かつて信長から勝龍寺城を与えられた細川藤孝が城を大改修した時に造営した土塁が遺構として残っていると云うことである。
さらに最近の調査では、この土塁の下に古墳が見つかったとも書かれている。

この土塁の東には神社がある。
そう大きな神社ではないが、神足の名の由来になった神社である。
祭神は天武天皇の子の舎人親王とされている。

長岡京遷都を果たした桓武天皇は、都の東南の方向のこの神社を旧都である奈良からの神の移入は不要であり、神は足りているとのことから「神足神社」を創建したのであった。
また、南北朝の時には南朝の攻撃を防いだ神社としても知られている。

神社の正面から出て、西に進む。
間もなく「ガラシャ通り」に出る。
明智光秀の娘、細川忠興の妻、玉・ガラシャに由来する通りである。
その通りを南へ下ると勝龍寺公園がある。
当時の勝龍寺城を模した天守や櫓が建てられている。
公園は神足の街域からは外れるが、少し覗いてみよう。

表には「明智光秀公三女玉お輿入れの城」との石碑が建っている。
城の中に入ると、忠興とガラシャの銅像、ガラシャおもかげの水の碑がある。
訪れた時期は丁度桜の頃で、城内の枝垂れが綺麗に咲いていたのが印象的であった。

長岡京市では毎年11月にガラシャを偲んでガラシャ祭りを開催している。
ガラシャの輿入れ行列や長岡京に関係する歴史上の人物の行列が行われる。

余談ではあるが、ガラシャとその父・明智光秀を主人公とした某公共放送の大河ドラマを実現すべく、その推進協議会が京都府下6市1町が連携して発足している。
かつて亀岡の光秀寺である谷性寺を訪問した時にもそのような紹介を受けた。

城から北へ歩き、神足地域へ戻る。
JR東海道線のガードがある。
正式にはここまでが住所地では「東神足」である。
ガードを潜って西の神足、正式には「神足」と云う住所地へ向かう。

ガードの先には燈籠が2基建っている。
「愛宕山常夜燈」と書かれている。
この地から別れて愛宕山へ向かう街道があったのであろう。
ここは西国街道である。
北にはカラー舗装された道路が広がっている。
虫籠窓の町屋もいくつか見られる。
「神足商店街」とのアーチもあり、華やいだ雰囲気となる。

「右 山さき 左 よど」と彫られた道標もある。
式内神足神社との石柱もある。
先程の神足神社の境内は、ここまであったのであろう。

この西国街道を北へ向かうことにする。
左手に国指定の有形文化財「旧石田家住宅」がある。
現在は市民が利用できる文化サロン「長岡京市立神足ふれあい町屋」として活用されている。
運用は乙訓障害者事業協会が運用しているとのことである。

更に北へ進む。
左手の公民館の前に「神足」と書かれた駅ホームの表示板が西国街道に向けて立てられている。
昔懐かしいものである。

程なく駅前の通りと交差する。
JR長岡京駅が見える。
ショッピングセンターの新しいビルもある。
何処から見ても駅の上に「MT製作所」のビルが聳えているのがこの辺りの特徴であろう。

通りを渡り北へ進む。
「ガラシャそば」「白黒竹食街道」の幟が建てられている食事処がある。
「白黒竹食街道」とは長岡の竹をイメージして、白は筍、黒は竹炭の白黒で、料理に筍を素材としたり、白や黒の素材を使ったりした料理を提供する食の町おこしである。
丁度昼時であったのでここで食事とは思ったが、まだ開店していなく残念であった。

更に西国街道を北上する。
進む程に商店街らしくなくなり、現在の民家と旧町屋が混在するようになり、市役所前の通り「アゼリア通り」に到着する。
西国街道はまだまだ北上して京都の羅生門に至るが、神足の地域はここが北限である。

ここから西に進む。
市役所前の交差点に「一里塚」があり、それを記念した歌碑がある。

この交差点から南へ自動車道を歩く。
新西国街道という。
再び駅に向かう道と交差する。
その先には小学校がある。
市立神足小学校である。
校門の横に長岡京の説明看板がある。
それによるとこの辺りは、長岡京の右京六条西二坊とある。
大極殿からはかなり南に下がったところである。
この辺り、現在は神足3丁目である。

更に行くと右手の墓地の入り口に「神足石仏群」がある。
六地蔵が祀られていて、地獄道など六道の迷いから救ってくれる地蔵を供養することの大切さを教えているそうである。

ここから西へ、路地に入って行く。
犬川という水路に出る。
川べりの散策路を南に下がって行く。
遠くに西山が綺麗に見える。
川の両岸には、桜のピンク、柳の緑が映えている。

犬川水路がカーブして西国街道・新西国街道と交差する。
新西国の道に沿って西南方向へ歩いて行く。
この辺りは、勝龍寺城の西方向にあたる。
神足の街の南限である。

暫く行くと大きな学校に突き当たる。
京都府立乙訓(おとくに)高校である。
この地点で神足の街は尽きる。

北へ向かって戻る。
自動車教習所の前を通り、阪急長岡天神駅に向かう。
駅の北辺りは長岡京市の繁華街である。
天神さんへの観光客も多い。
駅の近くに開田(かいでん)城跡の看板が建っている。
土塁と塀の跡が発掘されている。

余談であるが、
開田城は室町時代から戦国時代にかけて乙訓・西岡の土豪として活躍した国衆、中小路氏の城であった。
中小路氏の先祖は菅原道真の一族である。
太宰府へ左遷される道真に従った後、京へ戻り、菅原家の荘園地に天満宮を祀ったことでも知られている。

この阪急駅周辺に比べて、JR駅の周辺はこれから賑わいのある街角に変わってくるのであろう。
駅名を「神足(こうたり)」から「長岡京」に名を変えるとともに、整備が次々となされていっているようである。

阪急の道真軍に対して、JRの忠興・ガラシャ軍の挑戦、さてどうなって行くのであろうか、楽しみである。

〔完〕