京都の旧東海道、三条大橋から三条通りを東へ向かうと、先ず東大路と交差し、次に平安神宮へ向かう神宮道と交差し、それから先は少しの上り坂となって、これを通過すると「蹴上」という所に到着する。

この蹴上から先は更に上り坂となり、この先の日ノ岡峠を越えると山科の街に入って行く。
蹴上と云うところは京の七口の一つで、逸話・伝説やら真面目な話やらがたくさんあるところである。
京都観光をされた方なら一度は訪れたことがあるのでは、と思われる。

まず蹴上をウオッチングしてみよう。

JR京都駅からバスに乗って蹴上に行こうとバス便を探した。
路線看板だけでは良くは分からないので、バス停にて案内している係員に聞いてみた。
その答えは、
「蹴上へ行くバスはありません。地下鉄で行って下さい」
との冷たい返事である。
「三条京阪とかで乗り換えれば行けますか?」
「行けると思うけど…。他社の路線なんでね…。詳しくは降りたところで聞いて下さい。地下鉄が良いですけどね…」
あくまでも地下鉄を案内する。
京都市は地下鉄を通したので、山科へ行く路線を廃止したのであろうか?
あくまでも観光であるので、窓外の景色を見ながら新しい発見を求めたい。
地下鉄は街の景色が見えないので、ビジネス以外では使いたくないと思っている。

しかたがないので、市バスと京阪バスを乗り継いで行こうと、先ず市バスに乗った。
三条京阪で乗り換える積りであったが、このバスの経路は神宮道を通ることを思い出した。
そこまで行けば蹴上までは歩いてもそんな掛からないので、神宮道で下車して歩くことに変更した。

神宮道で下車した。
平安神宮の大鳥居前である。
鳥居前の疎水の橋まで歩いて、疎水の遊歩道を遡り蹴上に行く積りである。

疎水の両側の桜は7分ぐらいであろうか?
あと4~5日もすれば満開となるような様子である。
しかし、もう観桜遊覧船の営業は始まっている。

左手に京都市美術館、動物園、右手に料亭、その先に山県有朋の無鄰菴の塀を見ながら、船溜まり・琵琶湖疏水記念館のところまで到着し、ここから右折をする。

南禅寺に至る橋を左手に、右手に国際交流会館を見て更に進む。
右手に蹴上の発電所の構内を見下ろす場所まで来た。
そろそろ「蹴上」の交差点である。

蹴上と云えば真っ先に思い出すのは琵琶湖疏水開発物語である。
明治の中ごろ、京都の殖産興業を目指して、知事・北垣国道と青年技術者・田邊朔郎が織り成す琵琶湖疏水開削と発電所建設物語である。

この話は以前、拙作「街道いろは探歩」で書かせていただいたので、ご興味おありの方は下記を参照いただくとして、ここでは割愛させていただく。

蹴上の交差点から、疎水のインクラインの壁沿いに進んで行く。
暫く行くと左手に鳥居が出てくる。
日向(ひむかい)大神宮への参道である。
この参道階段を登って行くことにする。
江戸時代には、この参道の山科側には蹴上の茶店が4件ほどあったと云われている。

因みに右手の三条通りの道路向こうには現在、京都市の蹴上浄水場がある。

少し石段を登ったところで疎水に架かっている橋を渡る。
右手は疎水の水溜まり、過去の船溜まりである。
現在は三条通の向こうの浄水場へ琵琶湖から来た疎水を供給する機能を担っている。

橋を渡って登って行く。
左手に安養寺と云う寺がある。
現在は西山浄土宗に属する寺である。
青龍山と号し、王城の東の守りであったと云われている。

更に参道を登る。
日向大神宮に到着する。
実はこの神社を一度訪れてみたかったのが、今回蹴上を選んだ理由でもある。

日向大神宮は、清和天皇の勅願によって創建されたと云われている。
平安時代の中期である。
社殿は神明造であり、このような造りは京都では珍しいものである。
応仁の乱で焼亡したが、江戸時代初期に伊勢の野呂左衛門尉源宗光が再興したと云われている。
この神社は伊勢神宮のように内宮、外宮を備えている。
内宮の祭神は天照皇大神であり、京の伊勢と云われ、かつては東海道を旅する人たちの道中の安全祈願や、伊勢神宮への代参として多くの参拝があったと云われる。
今は観光神社からは外れ、それほどの参拝者も無いようではあるが…。

この蹴上には、義経伝説がある。
それは義経が16歳の時、金商人の金売吉次に伴われて奥州平泉に旅立つことになった時のことである。
この蹴上まで来た時に、平家の手の内の物と思われる関原与市以下9名の郎党と出くわした。
この者らの馬の後足で水を掛けられた(水を蹴り上げられた)ので、怒った義経はその者らを切って捨てたとも、いきなり襲われたので切って捨てたとも云われている。
その殺られた武者たちを哀れに思ったのか、地元の人たちが9体の地蔵を祀ったとの逸話もある。
また、義経が切って捨てた時の刀の血を洗ったという池もあると伝えられている。

恐らくは後年の作り事であろうが、どうなのか詳しい人に聞いて見ようと、ご朱印を書いて頂いた神官の方に質問してみた。
「義経伝説がありますね…。本当なんですか?」
「う~ん。云われてますけどね…。当社内の記録には何も書かれていないのでね…。恐らくは作りごとでしょうね…」
「なるほどね…。やはりそうなんですか」

神官の方が言うのであるから確かであろう。
あとは、この辺りの観光に纏わる話を聞いて、お礼を言って社務所を後にした。
この神社には「天の岩戸」というのがある。
それに摂社も沢山ある。
それぞれに立ち寄った。
神社を後に、今度は横の参道を下ることにした。

横の道には民家もあり関西日仏交流会館と云うのもある。
そして金網に囲まれた九条山浄水場の横を通り、向かいの蹴上浄水場の大きさに驚きながら、下の三条通まで出たのであった。

三条通を京都市内方面に下って行く。
インクラインの桜は9割方満開である。(3月28日)
いよいよ桜のシーズンがやってきたとの実感である。
道路の反対側へ渡り、老舗MYKホテルの前を通過する。
ここらあたりまでが蹴上であろう。

元の神宮道バス停まで戻る間に、2、3のウオッチングをして行こう。
裏道へ入って見る。

浄土真宗仏光寺派の本廟がある。
宗祖・親鸞聖人の墓所である。
山門を入ってみる。
綺麗な境内である。

奥の左手に墓所がある。
「御廟(おたまや)」と云う。
説明には
『親鸞聖人の御真骨をご安置するお堂で、御真骨は足利尊氏寄進の舎利容器に納められ、地下に埋葬されている。・・・』

そして右手には名刀匠・三条小鍛冶宗近の古跡・石碑がある。
説明文には、
『三条小鍛冶宗近は平安中期の刀匠で、本名は橘信濃守粟田藤四郎という。
名刀子狐丸を始め幾多の刀剣を造った。
祇園祭の長刀鉾の鉾頭の長刀は、宗近が娘の疾病治癒を感謝して鋳造し祇園社に奉納したものといわれ、特に有名である。
・・・仏光寺本廟境内に刀剣を鋳るときに用いた井戸があったといわれる。・・・
なお、粟田神社の境内に鍛冶社があり、また神狐の合槌によって名刀を鍛えたと伝えられる合槌稲荷社がある』
となっている。

最後は粟田神社である。
少し西に行ったところに石階段の参道がある。
この参道を登る。

粟田神社は、古くから旅立ちの守護神として崇敬を集めている。
かつては感神院新宮、粟田天王宮」と呼ばれていたが、明治の時代に粟田神社と改められている。
感神院新宮とは本宮である現在の祇園の八坂神社の新宮であったので、そのように云われたとのことである。
主祭神は牛頭天王=素戔嗚尊(すさのおのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)であり、疫病退治の御利益がある。
またこの神社には、義経が奥州下向の時、祈念したという恵比須像も祀られている。

蹴上の地名の由来はどうであろうか?
先程の義経伝説に基づくとの説もある。
また、この地にあった粟田刑場に罪人を連行する際、なかなか登ろうとしないので、役人が後ろから蹴り上げたとの説もある。
どちらもそれらしくない。
良くわからないと云うのが本音の蹴上(けあげ)である。

〔完〕