今回は「鶏冠井」という京都の桂川の西にある地名を尋ねることにする。
鶏冠井は阪急電車の京都本線「西向日駅」で下車すると、駅の北側(京都側)に広がる街並みである。
行政区では、これも難読「京都府向日市」に属する。

この鶏冠井には驚くべきものがあった。

駅を降りて、前の通りを北へ歩く。
2~3分も歩くと、そこには「大極殿」と云う交差点がある。
「大極殿? ひょっとしたら…」

交差点を渡り更に北へ…。
案内標柱があった。
「長岡京・大極殿」の跡地である。
矢印に従って左側の路地に入る。

そこは住宅地に囲まれた公園状になっていて、教育委員会の看板がいくつか見られる。
「なるほどなるほど…。ここが長岡京か…」
今更ながら、新たな発見をしてしまった。

『泣くよ(794)うぐいす平安京』
その前の10年間、ここに都があったのである。
日本史で教えてもらったことはあったが、どこにあるのか、全く知らなかった。

長岡京の経緯はこうである。
その前の奈良平城京では、寺院や貴族の勢力が強くなり過ぎ、それに辟易した天智天皇系の桓武天皇は新たな都の地を探した。
そして平城京から北10里で、水運に便利な土地、合わせて高台のこの長岡の地に都を設けることになった。
長岡とは長い岡の意味で、この付近は長細い台地、高台となっている。

長岡京に遷都して都建設に取り掛かったが、建設の責任者である藤原種継が間もなく暗殺された。
暗殺の首謀者の中には、平城京の仏教勢力である東大寺の関係者もいたと云われている。
そしてに天皇の皇太弟早良親王もこの暗殺事件に与していたと実しやかに云われ、親王は配流されてしまった。
親王は事実無根であったのであるが、その怨念を抱いたまま他界してしまったのであった。

親王の死後、日照りによる飢饉や疫病の大流行、皇后や皇太子の発病など様々な変事が起こった。
占ったところ、早良親王の怨霊であるとのことになった。
親王の御霊を鎮める行事を執り行ったり、霊を祟道(すどう)神社に祀ったりしたが、それも甲斐がなく、その後も大洪水が起こるなど大きな被害が続いたのであった。
和気清麻呂の進言もあって、僅か10年で廃止し、平安京を遷都したという謂れのその長岡京である。

実はこの長岡京は数十年前までは幻の都と云われていた。
それが1954年に、ある高校の先生の提案により発掘が開始され、朝堂院や大極殿の跡が発見され、その存在が確認されたのである。

その発掘の結果、長岡京は云われていたような未完の都ではなく、難波宮や平城宮の建物を移築したりして、完成度は高かったと推察されるようになった。
勿論、碁盤の目の京域も存在したとかなりの確度で推察されている。

西向日の駅から大極殿址へ向かう通りは「大極殿通」という。
大極殿址、宝憧殿址を見て、一旦長岡京探索は終了、そこから東へ進む。
阪急の線路を歩道トンネルで潜って、5分位で先ず「北真経寺」に到着した。

ここは鎌倉時代に創建されたた日蓮宗の大寺院である。
この鶏冠井にはあと2つ、同じような日蓮宗の大寺院がある。
「南真経寺」と「石塔寺」である。
それぞれに棲み分けがあるのであろうか?
良くは分からないので、深入りはしない。

この北真経寺の裏手に、鶏冠井公民館がある。
その玄関横に鶏冠井城址という標注がある。
ここに城があったとの説明である。

鶏冠井城、応仁の乱のころは鶏冠井氏が居城としていた。
記録は残っていないので、これも良くは分からないが、織田信長上洛の頃には既に鶏冠井氏は没落していたと伝えられている。

潜ってきた阪急の線路トンネルを戻って、また大極殿の前を通って、今度は南真経寺へ向かう。
北と同じような構えの寺である。
こちらの方が街中のためか、塀・境界がハッキリしている程度の違いである。

この寺の前には学校がある。
勝山中学と云う。なぜ勝山なのだろうか?
この中学の横、商店街を通り今度は石塔寺へ向かう。
石塔寺へ向かう門前の通りは西国街道であるとの看板もあった。

石塔寺も日蓮宗の寺院である。
但し、日蓮宗から独立し、本化日蓮宗と称している。
これら3寺の檀信徒で鶏冠井題目踊りというイベントを行うとの説明もあった。

この地点で、鶏冠井の街のポイントだけを見学し、一周したことになる。
後は駅に戻るだけである。
路地を駅に向かって歩き出した。

石塔寺と駅の間の駅寄りに「朝堂院址」がある。
当時の国会議事堂の跡である。
ここは綺麗に整地されている。
礎石を模した石も埋め込まれている。
教育委員会、観光協会の努力が伺われた場所であった。

駅に戻る前に、鶏冠井の地名の由来について考えてみる。

鶏冠井(かいで)は元々蛙手(かえるで)と言う地名だった。
それが訛って、「かいで」と呼ばれるようになった。

漢字「鶏冠井」が当て嵌められたのは、平安末期、公卿である徳大寺家の別荘がこの地に建てられたことに由来する。
古来、中国では宮殿の周りに楓(かえで)を植える習わしがあった。
徳大寺家では自分の屋敷に楓(古くは鶏冠木とも書く)を植え、さらに近くに井戸があったことから「鶏冠井殿(かいでどの)」と呼ばれたのをそのまま地名として転用したものと思われる。

駅まで戻ったが、何か物足りない。
「そうだ! 向日市をウオッチングしないと…」

北西方向に向日(むこう)市の名前の由来となった「向日山」と云う小高い丘がある。
ここに向日神社という古式豊かな神社がある。
折角だからここに行って見よう。

向日市を南北に貫いているメインの通りである「アストロ通り」を通り、向日町競輪場の手前の長い石畳の神社参道を登る。

5分ほど歩くと階段となる。
舞楽殿、拝殿、本殿の順に並んでいる神域に到達した。
神社の左手には、向日市天文館がある。
説明を見てみると、40cmの反射式望遠鏡とプラネタリウムを装備している。

向日神社の創建はかなり古い。
勿論、長岡京が遷都される以前である。

元々は、この向日山には、上ノ社「向神社」と下ノ社「火雷神社」という別の神社が鎮座していた。
向日神社は農耕の神である「御歳神(みとしのかみ)」を祀り、火雷神社は上賀茂神社の祭神「別雷神(わけいかづちのかみ)」の親神である火雷神(ほのいかづちのかみ)を祀る。
元はカモ族が住んでいたが、カモ族はその後上賀茂に移り住んだと推察できる。

この神社は創建以来、長岡京遷都・廃都、京の幾多の戦乱など、様々な歴史を見てきている。
そして鎌倉時代の承久の変で、自らも被害にあった。
下ノ社が焼かれたのである。
それを契機として、下ノ社を上ノ社に合祀し、社名を向日神社と改め、現在に至っている。

現在の本殿は室町時代に建造されたもので、室町時代の流造式の代表的な建築物として、重要文化財に指定されている。
また東京の明治神宮の本殿は、この向日神社をモデルにして1.5倍の大きさで造られている。

余談であるが、この神社の宮司は古来より六人部(むとべ)家が務めている。現在もそうである。
ご朱印を書いて頂いた神官の方も六人部という名札を付けていた。
この六人部家の内、幕末に神官であった六人部是香(むとべ よしか)と云う人は国学者であり、坂本竜馬、副島種臣、中岡慎太郎などを弟子としていたと云われている。

もう一つ余談、
羽柴秀吉が、この神社に来て、社殿が鎮座するの山の名前を訪ねたことがあった。
その時、神官は戦好きな秀吉に機転をきかせ、咄嗟に「勝山」と返したそうである。
秀吉大いに気に入り、以後、勝山とも云われたりする。
先ほど前を通った中学校の名前が勝山中学だったのは、このことに由来する。

鶏冠井から、少し広げて向日神社まで行ってしまったが、ウオッチングはこれで終了である。
この辺りは難読地名が多いのも特徴である。

「向日市」を始め、「鶏冠井」、そのすぐ北は「物集女」、更にその北には「樫原」と並んでいる。
さて、どう読むのであろうか?

〔完〕

〔読み方〕むこうし、かいで、もずめ、かたぎはら