かたの桜は大阪府交野(かたの)市で、江戸時代より酒造りに勤しんでいる「Y酒造」の銘酒である。
この酒蔵は「私部」と云う交野市の中心街にある。

交野と云うところは、平安時代から宮廷の貴族たちが狩に行く野原、すなわち「狩野」として知られている。
おおよその場所は大阪の生駒山系の北の西麓である。
狩野が訛って「かたの」となったと云われている。

また「私部」と云う地名は、妃のために働く部署のことを云い、この名は古代から、ここに皇室の妃のための米作の田圃があったことから名付けられている。

先日、酒を探しにデパートに立ち寄った時、偶然にもこのY酒造の社長さんとお会いした。
Y酒造の酒の販売コーナーが作られ、そこで販売活動をされていたのであった。
「Y酒造の方ですか?」
「そうです」
「ひょっとしたら、社長さん?」
「そうです」

「お父さんは、Hさんはお元気ですか?」
「父の名前を御存知ですか? 最近はあまり調子は良くないですが、健在です」
「それは良かった。実は、私はHさんの弟さんMさんに、大変お世話になったものです」
「へえェ~。そうなんですか…」
「実は…」

こんな調子で、酒とは関係ない話に暫く話が咲いたのであった。

あまり長くは喋っていては商売の邪魔になる。
お客さんも来たようなので、
「かたの桜、純米吟醸、生貯蔵酒」を購入して、引き下がったようなことであった。

「かたの桜」を飲んでみた。
芳醇の旨口である。
生貯蔵ということもあって、飲み易く、あと口もさわやかであった。
一気に無くなってしまったのであった。

「かたの桜」、謂れは歌人、藤原俊成の歌から名付けられている。
新古今和歌集の歌である。

『又や見ん 交野の御野の 桜狩り
花の雪散る 春の曙』

貴族たちは、この交野の桜を眺めつ、清流に遊んだという。
交野は現在も桜の名所である。

生駒山の堅い岩盤を貫いて流れて来る交野の伏流水は、適度なミネラルを含んでいて、酒造りにはもってこいと云う。
そして米も皇室の田と云うことから良質であり、酒造りには適していると云う。
自前の水と米で、美味しい酒を造っているのである。

江戸元禄の少し前頃には、私部にいくつかの酒蔵があったと云われるが、現在はY酒造のみとなり、交野酒の伝統を守っているのである。

私事で恐縮であるが、かたの桜との関わりを紹介する。
それには、長く務めた会社に入社した時のころまで遡らなければならない。

入社した時の事業所のトップが、先ほど出てきた先代社長の弟さんであった。
YMさんという。
酒蔵の息子さんであることを知ったのが、新年の初出の式の時であった。
「片野桜」という薦被りで鏡割りがあった。

近くの友人に聞いてみた。
「なんでこんな立派なことするの?」
「そりゃ、YMさんは酒蔵の御曹司だもん…」
答えてくれた友達も、別の酒蔵の御曹司であったのであるが…。

何か行事があるたびに、清酒片野桜を味わう理由もわかったのである。

ある時、休日出勤して、作業をしていたことがあった。
YMさんも出ていて、一人で自室で仕事をされていたうようである。
一段落した時とかに、気軽に仕事場に入って来られる。

そっと部屋に入って来られて、
「どや、できたか?」
と、早速の問いかけである。
しかし、言われても、まだまだ未完成である。
そのわけをあれこれ言うと長くなるのが通例なので、
「できてません。難しいです」
とだけ答えた。

するとYMさん、
「難しいやろう?難しいから君らにやってもらってるんや…。頑張ってやってくれ…」
それだけ云うと、出て行かれた。
この一言にどれだけ励まされたことか…。

今までの上司の名言の中では、一番に挙げられる言葉である。

やはり酒屋の御曹司、子供のころから水、米そして気候に左右される酒造りを目の当たりにして、技術を完成させるには、手間暇がかかると云うことが、よく分かっておられるのだと勝手に思った次第である。

このYMさん、その後会社の重役など勤められ、退任された後、残念ながら暫くして亡くなられた。
今でも慕われ、当時の部下たちが集まり、毎年お墓参りが継続されている。

片野桜の酒瓶を見るたびに思い出される。

〔かノ酒 完〕