「う」の付く酒、四国の「梅錦」か奈良の「梅の宿」かで迷ったが、奈良が連続となるためここは梅錦に決定して「純米原酒 酒一筋」を入手した。

梅錦とは何の関わりもないが、梅錦で思い出したことがある。
かつて車で四国八十八ヶ所の65番三角寺(さんかくじ)を訪れた時のことである。
場所は愛媛県川之江市、カーナビの案内に従って東の徳島方向へと向かっているようだ。
古い酒蔵の前を通過して、道は山の中へ入って行く。

暫く行くと林の中に入ってしまった。
車一台やっとが通れる幅の林道状の道を奥へ奥へと入って行く。
これはヤバいぞと思いながらも、こんな細い道、バックはできない。
対向車が来ないことを祈りながら、林の中を脱輪しないようにと、恐る恐ると進む。

もう少しもう少しと思いながら進んで行く。
日の射す段々畑の道に出た。
それでも道は狭い。
人家が見えているから安心ではある。
やっとの思いで三角寺の参道下の駐車スペースへ到着したのであった。

お参りを済ませ、ご朱印を頂いて、門前に掲げられている看板地図を見てみる。
何と反対方向に立派な道が描かれているではないか?
バカなカーナビとも、ここまでの案内で見限りとしたのであった。

帰り道は舗装された良い道である。
先ほどの酒蔵の前を戻る。
「梅錦山川」とある。
その時は酒に興味が無かったのでやり過ごし、川之江の街に戻ったのであった。

街に戻ってみると高台に城の天守が見える。
仏殿城と云われる川之江城(再建)である。
この城は南北朝時代に伊予の河野氏が讃岐の細川氏の攻撃に備え、土肥義昌に命じて築かせた城である。
近くまで行って天守を見上げたのであった。

川之江の近く伊予三島は製紙会社で世間を騒がせたDO製紙のお膝元でもある。
大きな工場があることも確認したのであった。

その後、川之江と三島そして近隣の町が合併して四国中央市が誕生した。
四国の中央か?何処が?と思ったが、我こそはと言った者勝ちの名付なんだなと思った次第である。

さて、話は酒である。
四国中央市の「梅錦」、味わって見た。
梅錦の能書きには西の横綱と記載されている。

確かに濃厚な味わいである。
アルコール度が17%近くもあるので、それは理解できる。
満足して、しっかりと飲ませて頂いたのであった。

梅錦と云う酒銘は、かつては近郷近在では梅林が茂り、その美しい梅の花と香りに由来して名付けられたと云うことである。
創業は江戸末期から明治にかけてである。

創業者は山川 由良太(ゆらた)と云う人物である。
酒蔵の名前は梅錦山川酒造と云う。

当初は水車を使った製油が主な生業であり、その副業として精米を始めその余力を買って酒造りに着手したと云われている。
当初の屋号は「藤井酒店」と云い、酒銘は「藤乃澤」であったそうである。

そのころは庄屋が酒蔵を創業するケースが多かったが、ここはそうではなく、初代とそれ以降の商才のみでのし上がり、成功を収めている。

梅錦は、あくまでも旨口の酒に固執している。
何故かと云えば、瀬戸内の料理に合う酒を追及しているからである。
瀬戸内の味付けは、伊吹島の出汁ジャコ「イリコ」と小豆島の醤油を合わせた郷土料理であり、それにはこの酒が合うとの主張である。

梅錦はこれまでに全国新酒鑑評会で30回の金賞を受賞してきている。
また但馬出身の杜氏のY氏も「現代の名工」に選ばれている。

更に「全国きき酒選手権大会」で各府県の代表を凌駕し、この蔵の蔵人S氏が優勝していることも素晴らしい成果であろうと思われる。

「瀬戸の花嫁」の歌い出しに「瀬戸は日暮れて 夕波小波 ・・・」とある。
瀬戸は夕景が似合う。

その夕景に合う酒として「梅錦」はこれからもその旨さ似つかわしさを追求していくのであろうと思われる。

〔うノ酒 完〕