大阪市住吉区の我孫子をウオッチングしようと地図でその街域を確かめてみた。
すると我孫子と名付けられている駅が4つもあることを発見した。
西から阪堺電車阪堺線の「我孫子道」、南海高野線の「我孫子前」、JR阪和線の「我孫子町」、そして大阪地下鉄の「我孫子」である。
南北に少し前後はあるが、ほぼ直線状に並んでいる。

どこへ行けば良いのか考えるのも面倒なので、西からこれらの駅を順に繋ぎながら、我孫子の街をウオッチングすることにした。

まず、阪堺線の「我孫子道」からである。
阪堺線は恵美須町から出ている一部路面を走るチンチン電車である。
天王寺から出ている線区を上町線と云う。
途中の住吉で合流しているので、先ずは便利な天王寺駅から乗ることにした。

地上にある電車の始発停留所は最近できた陸橋の上からは見えているが、そこに行くのが結構難しい。
一旦地下へもぐり、地下広場から行く方法しかない。

やっとの思いで地下からホームへの昇り口を見つけ、発車を待っている電車にのった。
電車は直ぐに発車した。
車内の広告を見ていると、安倍晴明神社「陰陽師安倍晴明(あべのせいめい)の生誕の地」、またその近くには本社の阿倍王子神社もある。
東天下茶屋(てんがちゃや)という駅というよりも停留所と云うのが似つかわしいかも知れないが、そこで降りると5分ぐらいで行けるようである。

どのようなものか分からないので、行って見ることにして、その駅で途中下車したのであった。
駅の前で電車の線路と直交している通りを晴明通りという。
線路から西は晴明通という住所地である。
反対の東に行って南に折れ、程なく晴明神社に到着したのであった。

お参りして、神社の由緒書きを見てみる。
『この神社は、社伝によれば1007年の創建で、安倍晴明公が祀られている。安倍晴明公は944年この地に生誕し、のちに京都に上り、天文陰陽推算の術を修め、天文博士などを歴任した。占いは百占奇中神の如しと称され、花山天皇の退位を予知し、大江山の鬼退治を指導したことは有名である。・・・・』
境内には安倍晴明の銅像、産湯井の跡もある。

余談であるが、
天王寺から南は阿倍野(あべの)というが、ここ古代の豪族「安倍氏」が居住していたことに由来している。
安倍晴明もその生誕地から安倍姓を名乗ったものと思われる。

晴明神社の本社である阿倍王子神社は熊野神社の分霊社である九十九王子の2番目であったということでこの名前がある。

少々長居をしたが、阿倍野の道草はこれくらいにして、住吉区の我孫子に歩を進めるべく電車に乗ったのであった。

チンチン電車は、晴明ヶ丘を過ぎ、帝塚山の住宅街を過ぎ、住吉大社の前を過ぎて我孫子前の駅に到着した。
ここから東の地下鉄あびこ駅に向かって、ウオッチングの開始である。

駅の東にアーケードの「我孫子道商店街」がある。
東に繋がっているようである。
まずはこの商店街を歩いてみよう。
綺麗な商店街であるが、人はほとんどいない。
シャッターが閉まっている店もそこここに見かける。
やはり時代なんであろうか?

アーケードを抜けると続いて「清水丘サンサンロード」と云う商店街がある。
屋根が無いので、サンサンと名付けたのであろう?
微笑ましいネーミングである。

これを抜けて「あべの筋」と交差した。
これを渡って暫く行くと、「遠里小野商店街」に入る。
これは大阪の地名ではかなりの難読である。
「おりおの」と読む。

実は遠里小野と云う地名は南の大和川の川向うの堺市にもある。
なぜなのか?
その答えは、大和川の付け替えによって起こったものである。

元々大和川は、拙作「深野の緑地は遊水池」のところでも紹介したが、低湿地である大阪河内の北部に流れ込み、大洪水を引き起こしていた。
これを江戸時代に奈良から出て真っ直ぐ西に流れ大坂湾に注ぐように付け替えた。

大阪市と堺市の市域はこの新しい大和川を境界としたため、このように遠里小野の地域を真っ二つに分断すると云う珍現象が起こったのであった。
同じように少し東にある浅香という地域も分断され、両市にその地名がある。

遠里小野商店街を抜けると、南海高野線「我孫子前」駅の北口に出る。
南海高野線は大阪の難波から高野山を結ぶ路線で、大阪泉南地域の東部の人達には無くてはならない電車である。
踏切を渡り、今度は広い道路を東へ進む。
スーパーがあり、病院があり、そして住吉消防署がある。
マンションも多数見られる。

暫く行くと大阪府立視覚支援学校の建物に突き当たる。
この学校の北側を回って、JR阪和線の「我孫子町」駅の南口に到達した。
阪和線は天王寺からこの辺りまで高架化が完成していて、我孫子町駅も高架の新しい駅となっている。

我孫子町駅の東側は「我孫子町商店会」という表示のある商店街である。
車道の両側にある。
安売りスーパーもあり、老舗の菓子屋さんあり、色んな店が並んでいる。
また、我孫子観音参道の案内もある。
この商店街を東へ歩いて行く。

暫く行くと、右矢印の「我孫子観音」の看板がある。
これに従って右に折れ観音へ向かう。
白く塗った塀が見えてくる。
塀に沿って歩いて行くが、なかなか山門まで到達しない。
大きく回り込むような形でやっと到着したのであった。

塀で囲まれている境内はかなり広いように思えるのに、参拝するところはそんなには広くない。
非公開の部分が大きいのであろう。

我孫子観音の正式名称は「観音宗総本山 吾彦山 大聖観音寺」と云う。
寺の山門のところにある石柱には吾彦観音寺と書かれている。
吾彦の名は、当時この地域で勢力を持っていた依網吾彦(よさみのあびこ)一族に由来するといわれている。
この寺の開基は西暦600年と云われ、聖徳太子がこの地に来た時、観音菩薩のお告げを受け、「吾彦山観音寺」が建てられたと伝えられている。
寺の本尊の聖観音は聖武天皇の勅願仏、護摩堂の不動明王は醍醐天皇の勅願仏と伝えられている。

また大坂の陣の時に真田幸村に追われた徳川家康はこの寺に逃げ込み、本堂に隠れて事なきを得たとのことで、その後家康や徳川家の寄進・帰依があり、36の塔頭を持つ大寺院となり、隆盛を極めたと云われている。

寺を後に東に向かう。
寺の参道であろう。出店が出ている通りを進む。
少し行くと普通の商店街となっていて、程なく地下鉄の「我孫子」駅の北口に到達した。
同時に大きな通りへ出たが、この通りを「我孫子筋」という。

この地点で4つの駅を巡ったことになり、目的は達成した。
しかし道路の向こう側には賑やかな商店街が見られる。
もう少し東まで行ってみよう。

道路の向こうの商店街「地下鉄我孫子中央商店街」と云う名前である。
愛称もあり「あびんこ」という。
かなり賑やかである。
今日のウオッチングで通った商店街ではダントツである。

商店街を歩いてみる。
大手のスーパーもある。
外食チェーン店もある。
それらの間に惣菜を売る店やら飲食店があり、そのコンビネーションが絶妙なんだろうか?
楽しみながら必要なものを入手できそうな雰囲気である。

この商店街を見たので、後は大和川を見にゆこう。
ここから南へ下がってみる。
南方向への道を辿り、車道を渡って住宅街へ入って行く。
マンション、個人住宅が並ぶところである。

大和川の手前に大きな学校がある。
大阪府立阪南高校と云う。
その高校を回り込んだところに、大依羅(おおよさみ)神社がある。

この神社、この地の豪族であった依羅吾彦(よさみのあびこ)の祖神である建豊波豆羅和気王および住吉三神を祭神としている。
この大依羅神社の名前は古事記・日本書紀にも出てくる。
依羅氏はこの一帯に広大な神領を有していた。

「我孫子(あびこ)」の地名は依羅吾彦に因むものであると云うのが有力説である。
この神社、朝廷からの崇敬を受け、摂津国内では住吉大社に次ぐ扱いを受けていた。
しかし南北朝時代には依羅氏が衰微し、社殿も焼失して社勢が衰えたと云われるが、「あびこ」の名は現在にも継承されている。

神社から出ると、その前に依網池(よさみいけ)址の石碑がある。
元々神社に関係する池であったが、大和川がこの池の上を通ったため、無くなってしまったことを記念しているものである。

大和川の堤防に上がった。
広い川の向うに堺市の住宅や工場街が見える。

江戸時代元禄のころまでは、川は無く繋がった土地であった筈である。
このように分断されると、住民の生活や産業や商業が大きく変わってしまう。

洪水防止のためには仕方ないとは思われるが、疑問は残るウオッチングであった。

〔完〕