京都の街中から、松原通りを東へ、鴨川を松原大橋で渡り、もっと東へ行くと東山に至る。
その途中に轆轤町という町がある。
難しい漢字が充てられているために、業界以外の人には難読である。

そしてそこから東山へ少し登ったあたりが、よく御存じの清水寺である。

この辺りは、かつては六原、或いは六波羅、もっと古くは、しゃれこうべの髑髏(どくろ)原と呼ばれ、京の葬送の地である鳥辺野の入口にあたり、多くの寺院が存在した。

今は奥嵯峨にある愛宕(おたぎ)念仏寺も、ここにあった。
鎌倉幕府の六波羅探題もこの場所にあったと云われる。

そして、松原通りと南北の道の交差点は「六道の辻」と呼ばれ、現在は轆轤町である。
寺院あり伝説もありで、現在でも何やら不思議な雰囲気の漂う処である。

千本刀獲りのあの弁慶が牛若丸を日々待ち伏せして、負かされたのもこの場所である。
五条の橋の上で待ち伏せしたのと話もあるが、それは後世の作り話である。
当時は五条通りには橋は無かったのである。

轆轤町の近くには、西国三十三ヶ所参りで有名な六波羅密寺もある。

変わった飴屋さんもある。
幟に「幽霊子育飴」と書いている。
ある夜、この飴屋に飴を買いに来たお嬢さんがいたと云う。
髪の長い汚らしい着物姿で、一文銭を持って、
「飴下さいな」
と入ってきた。

主人は追い返そうと思ったが、あまりにも憐れに思い、飴を売ったと云う。
次の夜も次の夜も、やって来て、六日間続いた。
七日目になって、
「もうお金がのうなりました。この着物で売って下さいな」
と立派だが湿っぽい着物を差し出した。
主人はまあいいかと思ってその着物と交換に、飴を渡したのであった。

あくる日その着物を店先で干していると、それを見てどこかの大店の主人らしきものが入って来て言うには、
「この着物を、何処で手に入れたのかな? この着物は亡くなった娘に、死出の旅に持たせたものであるがのぅ…」
店の主人は、
「かくかく、しかじかで…」
と話した。

「銭も六文、持たせたのだが…。 そうだったのか…」
早速、墓場へ行った。
すると、赤ん坊の泣き声が聞こえ、赤ん坊が飴を舐めていたのであった。

それ以来、この飴、幽霊子育飴と云われ、今でもそのネーミングで販売されている。
ちなみに味は微妙だが、カンロ飴を想像してもらうと近いと思われる。

もう一つ、ここには有名な伝説がある。
轆轤町の清水寺寄りに六道珍皇寺という寺がある。
変わった名前の寺だが、この寺に小野篁(たかむら)伝説が残っている。

小野篁と云う人、名前からして小野一族である。
そして賢人でもある。
あの遣隋使、小野妹子の子孫でもある。
また、小野道風や小野小町は篁の孫と云われている。

平安時代の初期の頃、小野篁は朝廷の要職にあり、遣唐副使に任命されたことがある。
遣唐正使の藤原常嗣の乗る船に欠陥が発見されたため、天子から、
「篁の乗る予定の船と取り替えよ」
との勅命が出された。
「そんな危険な目にあうこと、できる訳はない」
と篁は遣唐使に行くことを拒否したのであった。
そして疑問を感じていた遣唐使制度を批判する「西道謡」を作ったそうである。

その結果、天皇から隠岐島流しの刑が下され、海路難波より隠岐へ向かったのであった。
その道中、都のことを思い詠んだのがこの歌と云われる。
『わたの原 八十島かけて 漕ぎ出ぬと
人には告げよ 海人の釣り船』(百人一首)

ここまでは、真面目な話…。
篁(たかむら)伝説はここからである。

六道珍皇寺の庭園の一角に、小野篁の冥土通いの井戸と云われるものがある。
かつて篁は亡き母に会うためにこの珍皇寺を訪れ、この井戸に入ったのが最初であったと云われる。

そのうちに篁は閻魔大王の招きにより、毎夜この井戸から地獄の閻魔宮へ通い、閻魔裁判の補助をしていたと云われている。
朝になると、同じ京の葬送の地の一つである蓮台野の入口にある千本閻魔堂の井戸から、現世に帰って来たと云われるが、しかし帰りの井戸には諸説ある。

篁が遣唐副使を辞退した時、島流しの刑になったのであったが、そのとき藤原良相(よしみ)という右大臣が篁を弁護した。
一年半経って赦免され、篁が京に帰還した時から良相とは親交を結び、感謝が絶えなかったと云う。

その後、篁は参議、良相は右大臣になったが、 良相は運悪く重病を患い、他界したのであった。
良相は、直ちに閻魔王の使者に捉まえられ、閻魔王宮に連れて行かれ、罪を決める裁判にかけられた。
その時のこと…。
良相が前を見ると、なんと閻魔王宮の周りの居並ぶ中に篁がいるではないか。
「なんで篁が、こんな処に? 夢か、幻か?」
目配ばせしたが、篁は無表情。
「何が始まるのか?」
と心配が昂まってきたころ…、
やおら立ち上がった篁は閻魔王に、
「この者は、心正しき者である。私めに免じて許されよ」

閻魔王、一瞬、何だ何だと思ったが、
「篁の申し出ならば、罪を許してもよかろう。速やかに返すべし」
と、良相を捕らえてきた者に指図したのであった。
これにより良相は生き返り、病気も回復したと云う。

後日の朝廷でのこと…、
良相は、篁のそばへ行き、あのときの閻魔王宮でのことを尋ねたと云う。
「あの折のことは忘れ難い。あれは如何なる事であったのか?」
「先年、良相大臣は吾輩のために弁護してくれた。そのお礼までである。 このことは他言無用にされたし」

良相大臣は何も言わなかったが、閻魔王宮の臣であると云う篁のことは、またたく間に風聞として広がった。
以来、冥土に通う閻魔王宮の臣、篁は都の人々に恐れられたのであった。

最後は軽いエピソードに触れる。
嵯峨天皇在位の時のこと、「無悪善」と書かれた札が、何者かにより内裏に立てられていた。

天皇は、お気に入りの篁を呼び出し、
「これを読んで見よ」
と問うた。
「読みまするが、しかし畏れ多いことでござる。あえて申し上げますまい」
「かまわず申せ。」
と、天皇が言うので、篁は、
「さがなくて、よからん。 即ち帝を呪い申しているのでござる」

「悪」という文字は「さが」という読みがあり、篁は「悪」は「嵯峨」を表していると考えたのであった。
無悪善、すなわち悪(嵯峨)無(なくて)善(よからん)とのことである。

篁の答えを聞いた嵯峨天皇が言った。
「お前以外に誰が書こうか!」
「そうお思いになろうから、申し上げますまいと申したのでござる」
篁がそう答えると、天皇は、
「それでは何でも書いたものなら読めるというのだな!」
「何でもお読み申し上げまする」

すると天皇は「子」という文字を12個続けて書いた。
『子子子子子子子子子子子子』
「ならば、これを読んで見よ!」

篁は、
「猫の子のこの子猫、獅子の子の子獅子」
と、読んだ。
「子」は、この時代も、「ね」「こ」「し」と読んでいた。
嵯峨天皇は篁をお咎めなしとしたのであった。

轆轤町のあたり、葬送の地と云うことで長い間『髑髏(どくろ)町』と云われた。
あまりにも、おどろおどしい名前であるため、江戸時代、京都所司代の手により、当時焼き物の轆轤(ろくろ)工人が多かったことから、轆轤町と改められ、現在も轆轤町である。

この辺り、かつてより、京焼・清水焼の拠点でもあった。
少し南の五条通りの若宮八幡宮には、陶器の神も祀られている。

〔完〕