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大阪の堺市には「百舌鳥」と云う地名がある。
駅で云うとJR阪和線の「百舌鳥駅」、南海高野線の「百舌鳥八幡駅」と「中百舌鳥駅」、それに大阪市地下鉄の「中百舌鳥駅」の4駅である。
この4駅の南側一帯が百舌鳥と云う住所地である。
今回はJRの百舌鳥駅を起点として、この百舌鳥地区を訪ね、ウオッチングしてみる。
百舌鳥駅で下車し、先ずは少し寄り道をしてみる。
北西方向に有名な古墳がある。
我が国最大の古墳と云われている大仙陵古墳、通称仁徳天皇陵である。
途中から堀に沿って、正面まで訪問する。
正面の前に堺市の観光案内所がある。
こういう時は立ち寄って、情報収集するのが常道である。
百舌鳥の街の観光について聞いて見た。
その結果、中百舌鳥までのウオーキングコースが設定されていると云う。
早速、そのガイド地図を頂き、百舌鳥ウオッチングの出発とした。
先ず、ついでであるので仁御陵の前の通り「御陵通り(ごりょうどおり)」を挟んで南側にある大仙公園という大きな公園を覗いてみる。
この公園の住所地は、百舌鳥夕雲町である。
入ってみると、正面横に仁徳天皇の像がある。
鹿を撫で、百舌鳥を右手に乗せている。
百舌鳥と云う地名は、鹿が野の中から走り出て倒れ、その鹿の耳の中から百舌鳥が飛び立ったと云う言い伝えに基づくものである。
百舌鳥耳原という地名である。
百舌鳥は大阪府の鳥、そして堺市の鳥にもなっている。
正面に博物館がある。
通路の右側に武野紹鴎の像、左側に千利休の像がある。
どちらも堺が生んだ茶道の祖である。
武野紹鴎は利休の師にあたる。
博物館の右手前に茶室がある。
黄梅庵と伸庵で、いずれも登録有形文化財である。
中でも黄梅庵は奈良・今井町の重要文化財豊田家の茶室であったものを移築したものである。
広い公園であるが、通り抜けるとそこにも大きな古墳がる。
前方後円墳「履中天皇陵古墳」である。
その横を通り、「いたすけ古墳」の横も通って、「御廟山古墳」に出る。
古墳の周りは遊歩道が完備されている。
また、周辺の人々の手になるものであろうか? 道端に花も植えられ、楽しむことができる。
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案内に従って古墳の頂点の所から、街中の道に入って行く。
このような歴史の道は、最近ではカラー舗装されているので分かり易くなっている。
古墳から下って行くと大きな邸宅がある。
看板を見てみると「国指定重要文化財 高林家住宅」とある。
和泉国の徳川御三卿の一つ、清水家の領地のうち11ヶ村の管理し、苗字帯刀を許されていた大庄屋だったそうである。
大きな主屋があり、建築は戦国時代、天正年間だそうである。
大阪府で最も古い民家の一つと云われている。
中には入れないので、塀の外から見学させていただいた。
次は百舌鳥八幡宮へ向かう。
この辺りは百舌鳥赤畑町という。
横の参道から入る。広い神池「蓮池」もある。
八幡宮の境内はかなり広い。
本宮へ登る階段の脇に稲荷社も綺麗に整っている。
この八幡宮の祭神は応神天皇、創建は神功皇后と云われている。
他にも神功皇后、仲哀天皇も祀られている。
仁徳天皇の父親と祖父母である。
平安時代は石清水八幡宮の別宮だったそうである。
この神社には樹齢800年と云われる楠木があり、大阪府の天然記念物に指定されている。
中秋の名月の頃に大小17基のふとん太鼓が繰り出す勇壮な月見祭と云うのが開催されるそうである。
この神社の東に光明寺という大きな寺院がある。
奈良時代の初め、光明皇后の発願による寺で、現在は高野山真言宗金剛峰寺に属している。
神社の参道に戻り、境内に流れている百舌鳥川を渡る。
大鳥居を潜って街中に入って行く。
街角に道標があるが、良くは分からない。
暫くは細い道である。
広いところに出ると、百舌鳥小学校が見えるが、横目に見て、更に進む。
古墳に出る。
「土師ニサンザイ古墳」と云う。
古墳の周りの道路を歩いてその先に向かう。
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この前方後円墳の円の池の外側に岸は大墓地となっている。
このようなものも珍しい。
墓地の向こう側は学校となっている。
住所地を確認すると「百舌鳥梅町三丁」である。
ここら辺りが百舌鳥地区の最南端である。
道路向こうの学校を確認してみる。
「大阪府立大学 中百舌鳥キャンパス」という。
折角だから中に入ってみる。
広い大学である。
歩いているような学生さんはいない。皆自転車に乗っている。
入ったあたりは端の方であるので、この辺りまで手入れは行き届いていない様である。
ある程度自然に任せているのもいいのかとは思う。
暫く歩いて、中百舌鳥駅方向へ向かう。
大学の横門から出て、前の住宅街を歩く。
そのもう一つ向こうの住宅街に「定の山古墳」と云うのがある。
中世には東村砦という城だったそうである。
現在は城の山公園となっている。
広い道を中百舌鳥方向に歩く。
途中で八幡宮の境内で渡った百舌鳥川を渡り返す。
この辺りは中百舌鳥町と云う住所地である。
中百舌鳥の駅には行ってしまわないで、横道に入る。
そこには円墳の部分だけを残した「御廟表塚古墳」がある。
フェンスは無いので、誰でも入ることができる。
この時は地元の子たちが遊んでいた。
その古墳の前に古い住宅がある。
「筒井家住宅」と云う。
この住宅は大和筒井家の一族と云われている。
この辺りを開墾して庄屋となったそうである。
門前にある大きな楠木は樹齢1000年と云われていて、府下では最も古い古木で、天然記念物となっている。
説明看板や「百舌鳥のくすの木」という石柱まで建てられている。
もう一つ発見した。
この前の通りは「西高野街道」である。
思わぬところで思わぬものを見つけたのであった。
この街道を歩いてみる。
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古道であるだけに、寺院や旧民家が見られる。
長屋門の立派な住宅もあった。
現在では新旧入り混じった住宅街を形成している。
しばし、街道を楽しんだのであった。
西高野街道を歩いて「梅北」という広い道の交差点まで来た。
そろそろ終了である。
百舌鳥八幡の駅に出て電車に乗る積りで歩いた。
しかし方向を間違ったようである。
線路とに当たる筈だが、と思って歩いていたが中々行き当たらない。
やっと線路が見えたと思ったら、そこは中百舌鳥駅の近くであった。
仕方がないので、線路沿いを歩く。
「百舌鳥梅北町」を一周したようである。
こういう時は急に足が重くなるものである。
やっとの思いで南海電車の高野線、百舌鳥八幡駅に到着した。
後は電車を待って乗るだけとなった。
乗って見たら、時間帯からして学園列車である。
賑やかな車内であったが、ウオッチングを振り返りつつ、暫くゆっくりとさせていただいた。
百舌鳥(もず)古墳群を一渡りウオッチングしたことになった。
その当時、都が奈良から海が近い大阪へ遷宮されたことで、ここ堺の地に陵墓群が設けられ、このようになったのであろう。
しかし、古代のことなので、古事記や日本書紀の記述に頼るしかない。
記紀についても伝聞の記述なので、正確かどうかは不明である。
墓の主を特定するのは困難であろうと思われる。
古代ロマンの一部として受け止めれば、それなりに楽しめるものではある。
余談であるが、京都府向日市の北部に難読の「物集女(もずめ)」という住所地がある。
ここ百舌鳥に勢力を持っていた一族が移り住んだと云われている。
〔完〕