京都の繁華街の三条通と四条通の間、高瀬川に沿う木屋町通りと鴨川との間に「先斗町」と云う街がある。
細い先斗町の通りの両側と、幾つかの路地(ろーじ)には沢山の店が並んでいる。
殆どが飲食店である。
100軒は優に超える店の数があろう。

先斗町には、京都らしい「おばんざい」の店、鰻の店、焼肉、居酒屋、フランス料理、イタリアン、中華など、料理屋のデパート宜しく沢山の店がある。
もちろんクラブやスナックなど夜の店もある。
三条・四条の中間あたりには綺麗なちょっとした公園もある。
飲食店の密度、お客の密度から言えば京都で最高の所であろう…。

また先斗町は京都の有名な花街でもある。
お茶屋や置屋も多くあり、風情が感じられる。
三条通に出る手前に、先斗町歌舞練場が大きく構えている。
しかし先斗町の通りからは入口は分かるが、その全容は見えない。
鴨川対岸から眺めてみると、立派な建物が見られるのである。
歌舞練場では、5月になると「鴨川をどり」が開催されることで知られている。

余談であるが、京都にはこの先斗町を含めて5つの「をどり」がある。
最も有名なのは、京舞井上流、井上八千代家元が率いる祇園甲部の「都をどり」、その他に北野天満宮の境内横の上七軒の「北野をどり」、祇園宮川町の「京おどり」、そして八坂神社前の祇園会館にて秋に行われる「祇園をどり」である。

夏の先斗町は、鴨川に向かって張り出した納涼床が有名で京の風物詩となっている。
涼風を浴びながら呑むビールの味はまた格別である。

先斗町は500mばかりの南北の街である。
京都観光の折に訪れた方も多いと思う。
先斗町の街並みは、古式豊かな京町屋で構成されるが、訪れる度に新しい発見がある街である。

云わずと知れた先斗町であるが、この町の成りたちはどうであろうか?
歴史を遡って見ることにする。

あの豊臣秀吉が関白となって京の都の支配者となった時、彼は御土居という土を積み上げた土手を作り、当時の京の市街地を取り囲んだ。
三条、四条辺りでは、現在の河原町通りあたりにそれが築かれていた。
先斗町辺りは、鴨川の中州のようであったと云われている。
中州も含めこの辺りの河川敷では、出雲の阿国の歌舞伎やら、色んなイベントが開催され賑わうようになった。

江戸時代になって、用も無くなった御土居は取り壊され、京の水運を考え角倉了以によって高瀬川が開削され、合わせて中州は護岸のために石垣が築かれ、地続きにされた。
そしてその土地は高瀬川を上り下りする舟の船頭や客目当ての茶屋や旅籠が置かれ、茶立の女性が置かれたのがこの街の始まりであった。

そうなると、芸妓や娼妓も居住するようになり、花街が徐々に形成されていったのであるが、
幕府の未公認であるため、何度も取り締りを受けたという。
後に川端二条にあった二条新地の出先として認められ、一旦落ち着いたのであった。

幕末時代のこの辺りは、土佐、長州の藩邸もあり、勤皇、佐幕派に分かれた志士たちが行脚・抗争する舞台となった。
追われて路地に身を潜めたり、旅籠に隠れたりしたところである。

明治の初期になって、この地域は独立し、街としての体裁をなし、現在の先斗町が形成されていったのである。

先斗町を四条大橋の上から外観してみる。
夏になれば多くの川床が立ち並ぶ筈であるが、冬の今は河川敷改修中で景観はよろしくない。
川床というと秀吉の当時から、河原に茶店ができたり、金持ちの商人が河原に席を設けたりしたのがその始まりである。

そして江戸時代も中期になると、400軒もある先斗町や祇園の茶屋が場所取りの調整をするなど、徐々に組織化されていった。
当時は浅瀬に床机を置いたり、茶屋座敷からの張り出し式、砂洲に床机を並べるなどして、「河原の涼み」と云われていたのであった。

明治時代になって、夏の暑い7、8月に床を出すのが定着し、鴨川の右岸、左岸両方や砂州に床が出ていたのであった。

戦後になって、景観を重んじると云うことで「納涼床許可基準」が決められ、現在に至っている。
現在は京料理に限らず、色んな種類の床が出て、利用する人も若い人にまで広がっている。 勿論のこと、組合もでき自主規制も行われている。
組合では「納涼床設置規則」を定め、納涼床の文化・風物を継承する努力がなされていることは立派である。

現在の川床は、先斗町座敷から張出し、鴨川との間にある禊川の上に設けられている。
その更に鴨川寄りの河川敷には、太い道が作られている。
普通には遊歩道として利用されているが、万が一の時、消防車や緊急車が入れるようになっている。
これは先斗町の通りは狭くて車が入れないので、その備えになっているとのことである。

先斗町の石畳の通りを四条大橋の所から歩いて見る。
昼過ぎであったので、人通りは多いとは言えない。
ランチであろうか?時々店の中へ入って行くのを見かける程度であった。

真ん中あたりの公園で一服。
更に北へ進むと、歌舞練場の前を過ぎ、道は鴨川の方へ折れて、橋の袂に弥次喜多の像を見て三条通へ到達した。

先斗町はなぜ先斗町と云うのであろうか?
日本語起源で無いことは確かである。
説では、ポルトガル語から来ているというのが有力である。

なぜポルトガル語なのか? それは織田信長の時代に、この辺りに教会があったことに起因していると云われている。
ポルトガル語の「PONT」は「先」を表し、また「PONTE]は橋を表し、更に「PONTO」は英語のPOINTにあたり、東海道五十三次の終着点を表す。
そして、これらがミックスされて「先斗町(ぽんとちょう)」と云う名が出来上がったと云う説である。

しかし日本的には、先斗町は高瀬川と鴨川に挟まれた地域であるので、川(皮)と川(皮)が両側にある楽器である鼓を叩いたら、ポンと音がするので、そこから来ているという洒落のような説もあり面白い。

かつて「お座敷小唄」と云う唄があった。
作詞者不詳の歌である。
おそらくは、この先斗町の座敷で歌われていたものであろうが…。

「♪富士の高嶺に降る雪も 京都先斗町に降る雪も
雪に変わりはないじゃなし とけて流れりゃ皆同じ

・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・。」

「先斗町」、この歌をご存じの方なら、スッと読める地名ではある。

〔完〕