奈良県と大阪府の境をなす生駒・信貴連山の東麓、万葉や古今集に歌われた竜田川に沿って、近鉄電車の生駒線が通っている。
生駒駅と王寺駅との間を結んでいるが、その途中に平群駅、平群町がある。

今回はこの平群のウオッチングである。
平群駅を降りると、平群町の中心街となる。
少し北東に行けば、かつて天皇家の主導権争いで濡れ衣を着せられ、死に追い込まれた悲運の長屋王の墓がある。
そこから、平群町の中心街を抜け、西の信貴山を目指す道を「業平ロマンの道」という。
平安時代の歌人、在原業平のことである。

在原業平は東にある天理の自宅を出て、ここ平群を通り、山の向こう大坂側の河内高安の彼女の元へ通った道とされている。
山を越えていく峠は十三峠という。

業平の歌に、
『ちはやぶる 神代もきかず 竜田川
からくれなゐに 水くくるとは』
と、竜田川の紅葉を愛でた歌が、小倉百人一首にあり、良く知られている。

また、同じ小倉百人一首には、
『嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は
竜田の川の 錦なりけり』
と、能因法師の歌も収められ、良く知られている。

余談であるが、業平のこの歌は落語のネタになっていて、印象深い方もおありであろう。
その落語とは、こうである。

『ある御隠居の所に、馴染みの八五郎が訪ねて来た。
八五郎が娘に百人一首の業平の歌「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」の解釈を聞かれて、答えられなかったため、物知りの御隠居に聞きに来たのであった。
実は御隠居もこの歌の意味は知らなかったが、知らぬとは言えないので、とっさに次のような講釈をしたという話である。

相撲の人気力士、大関の竜田川が吉原へ遊びに行った時、千早という花魁に一目惚れをして、言い寄った。
しかし千早はこの力士は好きになれず、振ったのであった〔千早ふる〕。
振られた竜田川は妹分の神代に言いよったが、これも聞いてくれない〔神代も聞かず〕。

これでショックを受けた竜田川、相撲の成績が不振となり、力士を廃業して、実家に戻って、家業の豆腐屋を継いだ。
あるとき「おからを分けて下さいな」という女が現れた。分けてあげようとした竜田川だったが、この女を良く見ると千早のなれの果てであったため、激憤しおからをあげるどころか、千早を思い切り突き飛ばした〔からくれないに〕。

こうなったのも自分のせいと悲観した千早は、そこにあった井戸に身を投げてしまったのであった〔水くくる〕。

ここまで聞いた八五郎は納得したようであったが、「最後の『とは』って何ですか?」と聞いた。困った御隠居は「千早は源氏名、『とは』は千早の本名じゃ」と答えた』
このような話である。

業平の歌で余談が長くなったが、平群町を進めよう。

平群町には歴史的に有名な城跡がある。
信貴山(しぎさん)城である。
街角ではなく山岳地域であるが、この城跡を訪ねてみた。

この城跡へは真言宗の「朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)」から登って行くことになる。
朝護孫子寺は聖徳太子を開基とするという伝承がある。
太子が物部守屋討伐の戦勝祈願をした際に、自ら四天王の像を刻んだ。
伝承では、寅の年、寅の日、寅の刻に四天王の一である毘沙門天が聖徳太子の前に現れ、その加護によって物部氏に勝利したという。

それを感謝し、大師は推古2年に毘沙門天を祀る寺院を創建した。
そしてその名を「信ずべき貴ぶべき山(信貴山)」と名付けたとされている。
またこの寺の至る所に虎の張り子が置かれているのはその寅の逸話に由来している。
その後、醍醐天皇が「朝廟安穏・守護国土・子孫長久」の祈願寺としたことから「朝護孫子寺」の勅号を賜ったという由来がある。
尚、この寺には国宝の「信貴山縁起絵巻」がある。

この寺から登山道が整備されている。
しかし道は険しく、城跡の頂上まで30分は優にかかった。
城跡には信貴山城址の石碑と小さなお堂「空鉢護法堂」がある。
また城の本丸跡や土塁などが残っている。
途中の参道や城跡の周りには多くの鳥居も見られ、神仏が融合している場所でもある。

この信貴山城と云えば、松永弾正久秀の戦いが知られている。

戦国の習いで久秀は織田信長に付いたり離れたりしていたが、最後は信長に敵対することになった。

大和の国主に任じられていた久秀であったが、同じ大和の筒井順慶が信長にどう上手く取り入ったのか大和の国主になってしまった。
信長好みであったのであろう。
旗色悪しとなった久秀は、そのころ上杉謙信が上洛するという動きを察知し、本願寺の顕如と結託して、信長に対立した。
しかし、雪のためか謙信の上洛は中断となり、久秀の信長に対する立場は、決定的となってしまった。

「こうなった以上、これまで」
久秀の決断も早い。
ちまちました工作は好まない久秀、あっさりと居城の信貴山城へ篭り、備えを強化した。
信貴山は生駒・信貴連山の南端、大和川に程近く、大和・河内を一望できる要害である。

信長は久秀の説得に使者を遣わしたが、久秀は会いもしなかった。

天正5年(本能寺変の5年前)10月5日、織田信忠を大将とする織田軍、4万が戦闘を起した。
織田軍主力には、光秀、秀吉、細川幽斎など、有力武将が多くいた。

もちろん、先鋒は筒井順慶であることは、云うまでも無い。
悪賢い順慶は信貴山城内に、元部下の鉄砲隊を、内応者として送り込んでいた。

松永の守備隊はそれでも八千、先ず、信貴山の麓から上まで、立てこもることが出来る施設を焼いた。
朝護孫子寺の毘沙門堂も炎上したという。

信長軍は手始めに、王寺の片岡城を攻め落とした。
この片岡城、地の片岡氏から久秀が奪ったもので、大和川の対岸の守りを固めていたものであった。

信貴山城は難攻不落の城、山道も険しく大軍が一時に押し寄せることは出来ない。
少数ずつで、攻め登るしか手は無い。
従って、守備軍は少数でも十分戦えた。
戦線は膠着して動かない日々が続いた。

消耗戦になるかと思われたころ、城内で火の手が上がった。
筒井の隠し玉である。
「不覚だった」
と、久秀は一瞬思ったが、仕方が無い。

城内は混乱した。
消火は難しい。
燃えるに任せるということは、負けるに任せるということであった。
これまでと見た久秀・久通親子、自爆自害した。
あっけない、そして久秀らしい最後であった。

このような、戦国の有名な物語も語られる奈良県生駒郡平群(へぐり)町である。

平群町の名前の由来はどうであろうか?
それは古代に遡ることになる。
東に位置する大和朝廷から見て、西の生駒・信貴連山の麓は辺境の地である。
この辺境の地が訛って、辺郡⇒平郡⇒平群と変わってきたと考えられる。

〔完〕

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