6月半ばの父の日が近づくに連れて、ラッキーなことに、珍しい酒が売り場に並ぶようになる。

その中に、日頃見慣れない酒「ヌーベル月桂冠純米酒」を見つけた。
月桂冠であるから、蔵元はこの前書いたのと同じであるが止むを得ない。
早速購入、味わって見ることにした。

瓶の形状は変わっている。
下半分を太く、上は首を細く絞ったような形である。ガラスもクリスタルのように薄青の透明で、日本酒の標準の瓶とは違い、一見日本酒とは思えない。

ヌーベルであるので新しいと云う意味であろう…。
何が新しいのか? まずは味わって見ることにした。

伏見の酒である。
勿論のこと芳醇・甘口であった。
おまけに結構フルーティーと云うのか、ワインのような味の感覚である。

新しいと云うのは予想通り、日本酒の伝統に洋風の味わい感覚をプラスした酒であった。

思えば、日本酒の蔵元も大変である。
大量に捌けるコスパの良い従来の清酒に加えて、少しでも高く売れる酒をと、その中身に改良を日々加えているのである。

お蔭で飲む方は色々な味が楽しめていいのであるが…。

さて、月桂冠や伏見の酒につては、以前の「ほノ酒」のところで触れさせていただいた。
今回はここ伏見の歴史について探ってみようと思う。

伏見の歴史は伏見稲荷創建が最も古い記録であろうか…?
稲荷神社は京都盆地が未開のころ大陸から移り住み、盆地の西北から大坂の北部までが活動の舞台であった秦氏が創設した神社である。秦氏の護り神であった。

そのころの秦氏は自らが伝えた農業から養蚕業、酒造業に至るまでの当時の代表産業を取り仕切り、巨万の財力を築いていた。
平安京の遷都については、その財力が大きく貢献したと云われる。

京都盆地の南に位置して、かつては宇治川が流れ込む大きな池があった。
巨椋(おぐら)池と云う。
古代は大坂北部からこの伏見まで、海が入り込んできていた。その名残であろう。
今は干拓がなされていて、田圃としてのみ活用されている。
住宅の建っていない地域が広く広がっているのでそれとわかる。

その池の畔にあった伏見は水の街であった。
そして伏見とは、桃山丘陵から良質の伏流水が湧き出ていて、その由来で名付けられたのであった。
この伏流水、御香水と云うが、酒造りにも適していた。
平安遷都により、都で需要があった酒に、伏見でも酒造りが芽生えたのは至極当たり前のことであった。

伏見と云うところは、京、大坂を同時に見渡すことができるベストポイントである。
合わせて奈良方面の街道も見渡すことができる当時の交通の要衝でもあった。
これに目を付けたのは、よくご存じの豊臣秀吉である。
彼は最初は交通の便を考え池に近い場所に城を築いたが、のち桃山の山頂に威容も示すべく伏見城を築いた。

そして次は治水である。
太閤堤を築き、宇治川と巨椋池を分離した。宇治川・淀川水路を造ったのであった。
更に淀川南岸に大坂まで至る「文禄堤」を築きその上を歩行できる陸路「京街道」をも造ったのであった。
そして池を縦断する大和街道も造り、奈良との往来も近くしたのであった。

余談であるが、当時はそんなに土地が不足していなかった。
巨椋池は埋め立てられずに、そのまま池のままであった。
この池が埋め立てられたのは、昭和の時代である。
数十年前まで、池はあったのである。

城下では、城の麓にそれぞれの豊臣大名に武家屋敷を造らせた。
そして武家屋敷の外側、京町筋、両替筋の外側に町屋を造らせ、城下町として整備したのであった。

水運を利用する運河も開削した。
その運河の縁にはそれを利用する商家や酒蔵ができたのであった。
それが現在も生きている伏見の酒蔵のルーツである。
水路に映える酒蔵の風景、今も見ることができる。

徳川の時代になって、伏見城や城下町は廃止されたが、伏見は本陣が四つもある宿場町となり、城下町であった時代と同様に栄えたと云う。
家康はこの伏見に最初の銀座を造った。
商業の興隆目的である。

尚、江戸初期には伏見の酒造家は83軒、その生産高は1万5千石余りに達していたと云われる。

そののち、伏見の酒蔵には氷河期が訪れる。
伏見の酒が京や江戸への出入りが禁止されたためである。
反秀吉の大きな流れがあったためであろうか…?
その衰退の不幸にもめげず2軒の酒蔵が残った。
その中の一軒が「笠置屋」のちの月桂冠大倉酒造、今回の蔵元である。

江戸時代には伏見は幕府の直轄地になり、伏見奉行所が置かれた。
問題の薩摩藩邸も近くにあり、江戸末期には坂本竜馬などが活躍することにもなったのである。

現在の伏見はどうなっているのか?
伏見城天守閣や本丸があった桃山の山頂は明治天皇の御陵になっている。
そして武家屋敷の跡はその名前を現在の町名に残している。

例えば筒井がいた屋敷跡の町名は「桃山筒井伊賀東町」、毛利がいたところは「桃山毛利長門東町」と云う風にである。
丹波橋、毛利橋と云うのも残している。
一歩西側の町屋ゾーンに入ると、両替町やら魚屋町やら瀬戸物町やら当時の名前がそのまま残っている。

伏見の家屋は維新の戦いで殆どが焼けてしまったという。
酒蔵の一角には類焼を免れたものもあり、江戸時代の匂いと酒の香しさを感じることができるのである。
〔ぬノ酒 完〕