1600年、9月15日、午前7時、山間の朝霧がそろそろ晴れようかという頃、福島正則隊の横を、急ぎ足で西へ進む1隊、いや2隊があった。
美濃平野の西の端に盲腸のように突き出た不破の関、関ヶ原のいつもとは違う朝の光景、餌を漁っていた鳥たちは、この異様な殺気に感付いたのか、付近の山を目指して飛んで行ってしまった。

福島正則隊の物見からの報告、
「真っ赤な井伊隊、そして葵の御紋、西へ向けて、駆け抜けし候!!」
「遅れを取ったか!! 皆の者、行くぞ!!」
と、正則。
正則はもう騎馬で駆けだした。

昨夜遅く家康本陣の軍議にて、申し渡されたことがある。
「正則殿には先鋒をのう…、不慣れな土地じゃから、日が昇るまで待って、鉄砲を撃ち込んでくれよのう」
朝霧が晴れるのを待ったばかりに、しびれを切らした家康軍艦の井伊・松平に先に行かれてしまった。
命令違反であるが、しようがない。
「者ども、急げや急げ…!」
必死に駆けた。

駆けて天満山の麓が見えるところまで来た。
狭いところなので、ほんのひとっ走りである。
「兒」の旗差物も見える。
豊臣家5大老の1人、宇喜多秀家(うきた ひでいえ)の陣である。
井伊隊・松平隊の鉄砲方が既に隊列を整えている。
正則隊もその横であるが、恥ずかしそうにしかし少しだけ前に整列した。

山際に宇喜多隊も整列している。

百戦錬磨の正則、遅れは取ったが待っていてくれた井伊に感謝しつつ、
「かかれ!!」
と馬上、叫んだ。

時は朝の8時、霧も晴れ上がった、
関ヶ原の開戦である。

東軍右翼の黒田長政隊、細川忠興隊、鉄砲の音を合図に、笹尾山の石田三成本陣に攻めかかる。
三成本陣を守るのは島左近と蒲生氏郷、精鋭ではあったが、左近は右足を撃ち抜かれ、氏郷も撃ち取られてしまう。
かろうじて山腹に設置した大砲が陣地を支えている。
宇喜多隊の善戦と合わせて、戦線は膠着状態となった。

この時の戦力は東軍8万、西軍8万の互角になる筈であったが、東軍は秀忠率いる中仙道行軍隊が信州上田城で真田勢に足止めを食って未だ到着せずで、半数もいない。

西軍は関ヶ原を包み込むように釣り針形の布陣は終わってるが、毛利本軍、小早川隊、島津隊が未だ参戦せずで、これも戦力は半分以下、局地戦状態であった。

戦場をラグビー場に例えると、三成陣のゴール横でスクラム戦を続けているようなもの、膠着状態を打開する策はなく、スタンドで観戦する者、バスで駆けつける者の一早い参戦が望まれるようになっていた。

ここで関ヶ原の陣形について少し触れる。

三成西軍は釣り針の陣である。
釣り針を東西に寝かせて、針先を北に持ってくる形である。
針先は三成本陣の笹尾山、左側の懐には、島津隊、小西隊、それに、深いところ宇喜多隊、そして大谷吉継隊、針のシャフトの部分の真ん中の松尾山に小早川秀秋隊、さらに針の糸結びのところの南宮山、南宮大社を中心に毛利本軍、毛利軍の後の栗原山に土佐の長宗我部隊、そして毛利の先鋒よろしく、毛利軍前面には吉川広家隊が陣取っていた。

この陣形は釣り針の中に東軍が入ってくれば、たちまちに撃ち取れる完璧なものであったと、軍事評論家には評価が高い。

一方、東軍家康隊は、家康本陣が釣り針のシャフトの松尾山と南宮山の間の桃配山に、後の部隊は平野部の中に布陣していた。ただ黒田隊は釣り針先端の、三成陣の東側の瑞竜寺の小高い所に陣を構えた。

家康が西軍の部隊の間の山に本陣を構えたのは、戦況がよく見られるようにとの考えであろう。
しかし危ないことはしない家康、この時点では既に西軍の小早川や毛利が寝返っていると云う確信もあったのであろう。

今思えば秀忠本隊が到着せず、見るからに負け戦に家康が挑んで行ったのは、大いなる確信があったものと思われる。
家康は自らの手で、釣り針を既に折っていたのであった。

少し余談…、
古代中国の紀元前、春秋時代の書「孫子の兵法」と云うのがある。
『百戦百勝は善の善なるものに非ず
戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり』
『敵を知り己を知れば、百戦して危うからず』
有名なフレーズであり、現代社会にも通ずる理にかなった教えである。

家康はこれを地で行った。
戦う前にもう勝敗は決まっていたのである。
西軍武将宛てに数百通の内通を勧める手紙を書いたと云う。
そして、外交僧、天海和尚、教如上人…、高台院(おね)、常高院(お初)の力も十分な支えとして三成を関ヶ原に誘い出しての合戦になっていた。

戦線膠着の打開として三成は島津隊、小早川隊、毛利隊へ参戦の使者を出したが、皆動かなかった。

島津隊への使者が馬上から「ご参戦を!!」と言ったのを、無礼であるとして動かなかったと云う。

毛利本隊は先頭に陣取ってる吉川隊が、
「ただいま弁当をつかっているところである! しばし待たれよ!」
と言って、追い返したそうである。
「宰相殿の空弁当」と云われる。
皆、それなりにまことしやかな、理由を付けたのであった。

この頃、同じように家康も焦り始めていた。
内応している小早川が、山を下りてこない。
「金吾は何を考えているか! このまま、戦が終わるのを待っているのか! 頃合いが分からん奴め!! 金吾に鉄砲を撃ち込んでやれ!!」

撃ち込まれて慌てた秀秋、山を下りて、宇喜多隊の側面に襲いかかった。
そこへ小早川の寝返りを予測していた大谷吉継が温存部隊で応戦し、一旦は退けたものの、小早川に連動して、西軍の脇坂隊や朽木隊も寝返ってしまったためたちまち劣勢、小早川の元気な1万5千に蹂躙され、西軍は総崩れ、吉継は戦死、秀家は背後の山中へ壊走した。

秀秋が山を下りると同時に、家康も本陣を関ヶ原のど真ん中に移した。
陣馬野と云われる場所である。

残るは三成本陣のみ。徳川軍の諸隊、ここぞとばかりに攻めに攻めた。
結果は惨憺たるもの、三成も北国街道へ壊走した。

この時点で関ヶ原の戦いは終結した。
と思ったが 終わっていない隊がいた。
島津義久隊である。
戦いを避けていたら、戦場の真ん中に居座っていた。
終わってみれば周りは徳川軍だらけであった。

こうなれば、大谷隊のいた山間の狭い道を近江方面へ逃げるのが常道だが、徳川兵が一杯いる。
同じいるならと云うことで、広い方へ進軍、徳川軍の隙間突破の選択をした。

徳川軍は伏兵が出たと云うことで、大慌てで向かって来た。
襲いかかって来る徳川軍に島津軍は応戦しながら逃げた。
2000いたと云う軍が抜け出た時には300になっていたと云う。
これらは途中、宇喜多秀家を拾い、鹿児島まで帰り着いたと云う。

戦犯として捕らえられた石田三成、小西行長、毛利の軍僧安国寺恵瓊は、家康の命にて処刑されたと云われている。

関ヶ原は終わった。
しかしこのように狭く、戦うのに不適当な関ヶ原が選ばれたのは、なぜ?と云う疑問が残る。

この対決は官僚派の三成と武断派の諸大名との対立と云われている。
三成は秀吉存命の頃は虎の威を借る狐でよかったが、秀吉亡き後、自らが秀吉になったつもりで差配した。
当然のことながら諸大名との対立が深まる。
しかし大人の前田利家がいたので、
「まあ、まあ、まあ、…」
となだめ役を買ってくれたが、その利家が亡くなってしまいその後、対立が激化し三成暗殺騒動が起こった。
家康は三成の職を解き地元に帰らせてしまった。

三成がいると大坂城はややこしい。
この機会に三成派、いや反家康派を亡きものにと思ったのは当然であろう。

家康は仕掛けた。
上杉征伐のために江戸に下降した大阪留守の際に、家康の狙い通り三成が挙兵してくれた。

戦いの場所は何処になるのか?
三成は岐阜美濃で待ちうける積りで大垣城とその周辺に陣を張った。
岐阜城には信長の孫、織田信秀(三法師)が西軍でいてくれる。
織田・豊臣対徳川の図式を描き、諸侯の西軍参戦を期待することもあった。

軍勢の人数と云い、拠点の城と云い、三成は戦は有利に展開すると思っていた。

家康は本多正信と作戦を考えていた。
「野原での攻城戦には多くの兵が要るが、これ以上の動員は無理じゃなあ。各地で戦闘中じゃからなあ」
上杉対伊達・最上の戦いを始め、各所で戦いが起こっていた。
九州、四国・中国、近畿丹後…。

「野戦だと長期戦も辞さずの覚悟か? 長引く間に一旦寝返ったやつらが戦況如何で逆に寝返るかも知れん? 紙切れ一枚で寝返った奴らじゃ、信用は出来ん。短期戦で、行きたいものじゃ。 正信、何か妙案はないかのう?」
「御意、殿の御心配はそのようにと存ずる。一つだけ策がござる」
「なんじゃ、申してみよ!」
「それは我が軍が大垣を横目に見て、京大阪へ向かうのでござる。中仙道をそのままに…。いや、その策を、敵軍に漏らすのでござる」
「そんなもので勝てるのか?」

「それだけでは…、何とも…。秘策がござる。小早川の大軍を関ヶ原の山に配するのでござる
関ヶ原は狭い土地故、集中戦になって、一日もあれば勝負がつくはず。三成は小早川の軍が寝返っている事を知らずにいる由、必ずやその近くで陣を張ること必定でござる」

「なるほどな・・、それは理にかなったり!! 正信、お前の悪智恵も一流になったのう…。早速、金吾に連絡せい!!」

その後、小早川隊が大垣を離れ関ヶ原松尾山に陣を張ったのであった。

小早川隊15000がいないと戦にならないと踏んでいた三成、小早川隊移動の報を受け、全軍に関ヶ原への布陣指令を出した。
そして小早川隊と三成本隊とで関ヶ原を包み込ように、笹尾山に本陣を設けたのであった。
前日の夜のことである。

翌日、家康・正信の目論見通りの、超短期戦が展開され、目論見通りの勝ち戦となったのであった。

最後に筆者の意見を言わせて頂く…。
三成の目的が見えてこない。
目標の無いところには、何も生まれなかった。
単なる憤懣だったのだろうか?
そんなものに、ついて来る者は少なかった。

東軍ははっきりした目標を立てていた。
目標を明確にすれば、人は付いてくる。
わかり易くして、こまめに根回しをする。
勝てたのは当たり前であろう。

「号砲に 野鳥戸惑う 関ヶ原
武人の宿命(さだめ) 椿花哀し」

京阪奈いろは巡礼〔完〕