滋賀県大津市の琵琶湖の西岸、堅田・琵琶湖大橋の少し北に小野という地区がある。
小野には飛鳥時代から平安時代まで朝廷で活躍した小野氏一族の氏神である「小野神社」「小野篁神社」「小野道風神社」そして「小野妹子神社」がある。

この小野神社には小野氏の祖と云われる孝昭天皇の皇子、天足彦国押人命(あめのおしたらしひこのみこと)、並びにその子孫7代目の米餅搗大使主命(たがねつきのおおおみのみこと)の2神が祀られている。

米餅搗大使主命は応神天皇の頃、わが国で最初に餅をついた餅造りの始祖といわれ、現在もお菓子の神様としての信仰も集めている。
毎年10月には全国から餅や菓子の製造業者が自慢の製品を持って神社に集まり「ひとぎ祭」が行われる。
そして小野篁神社、小野道風神社、小野妹子神社はその名の通り、それぞれの人物が祀られている。

「をノ段」、これらの神社を訪ね、小野氏に纏わる逸話を拾ってみることにする。

先ずはウオッチングである。
小野神社群にはJR湖西線の和邇駅で下車し、訪問した。

和邇駅から恐らく旧街道であろう、「わにの郷」と名付けられた商店街を歩く。
途中の三叉路の真ん中に高さ2m程度の自然石に「榎」と云う文字だけを彫り込んだ石碑を見る。
この三叉路を西に取って山の方に行けば「途中」と云う峠になり、それを南の京都方面に越えれば「大原」、北の比良山方向に向かえば安曇川を辿って「朽木地区」、その先は若狭となる。

曲がらずに真っ直ぐ進む。
和邇川の手前に和邇公園と云うのがある。
和邇川を渡った先に小野篁が創建したと云う天台宗の寺「上品寺(じょうぼんじ)」がある。
その寺の横が小野神社への参道である。
参道を進む。
左側に神田がある。田植えの直後であろうか、神域の縄張りの中に青々とした稲が植えられている。

その先に社に向かう参道がある。
その入り口に篁の歌碑がある。
百人一首の歌、
「わたのはら 八十島かけて 漕ぎ出でぬと
人には告げよ 海人の釣船」
篁が隠岐の島に流される時の歌である。

この歌に、小野小町が答歌をしている。
「おきをいて みをやくよりも わびしきは
みやこでしまの わかれなりけり」
小町の文壇デビュー作とも云われている。

参道直ぐ右手に小野小町の供養塔がある。小町塚と云う。
更に上ると、小野篁神社、その奥に小野神社がある。
小野神社の中から神官と世話役みたいな人が出てきた。
扁額の壊れたのを手にしている。
「猿にやられたんですわ…」
猿は神社も何も分からないのだから仕方ないのであるが…。

神官の話を聞いた。
「小野一族は南北朝の時、南朝方だったので、戦後、足利尊氏に領地は全て召し上げられたんですよ。それで滅亡です。この神社だけはかろうじて残されたんです」

なるほど南北朝が生きているんだな、と思った次第である。

次に道風神社へ向かう。
途中に石神古墳群という看板もある。
この先は山道である。竹林を滑りながら歩く。
結構遠いが、やっとの思いで到着した。
地元の人達の奉仕でお蔭であろうか、綺麗に整備されている。
お参りを済ませ、次に向かおう。

さて、次は妹子神社である。
小野妹子公園(唐臼山古墳)と云う案内標識に従って歩く。
丘をずんずん登って行く。
途中に小野小学校と云うのがある。
住宅街(びわこニュータウンの一部)の真ん中の最高部に、その公園らしきがあり、無事到着した。

その公園らしきは「唐臼山古墳」の看板しかない。
小野妹子神社はこの一角に…ある筈である。
けど、見つからない。

諦めかけ帰りかけたとき、鳥居が林の中に見えた。
直ぐ行ってみた。
小さな祠である。
祠の後ろは妹子の墓との説明がある。
お参りして、付近を散策してみる。

この辺りは高台である。
比良山系の蓬莱山が見える。その北側の連山も見える。かつて縦走したことを思い出した。

琵琶湖も良く見える。
対岸には近江富士が見える。
嬉しくなる光景であった。
ただ、雨降りの天候であったのが残念である。

妹子の生誕地と小野神社群を眺めたことで満足したのであった。

小野氏で良く知られているのは、神社でも祀られている遣隋使の小野妹子(いもこ)、冥途通いの小野篁(たかむら)、それに小野小町、小野道風であろう。
このように何代にも渡って傑出した人物が出る家系も珍しいのではあるが、それはそうなのであろう…。
小野氏の一族は、敏達天皇の直系である。そして天皇家と縦と横の関係も保ちながら、遣唐使を務めた者や東北・九州などの地方官僚を務めたものも多くいる。
また学問や文芸に長けた者もいる。

まずは小野妹子である。
推古天皇と皇太子の聖徳太子の時代である。
小野妹子はその時、今で言う外務大臣のような仕事をしていた。
中国や朝鮮半島などの海外にも通じている優秀な官僚であった。

当時我が国は朝鮮半島の「任那(みまな)国」とは親交を持っており、その関係で半島の他国との争いには口出し、手出しをしていたし、中国情報も多数集めていた。

さらに、我が国は古代から養蚕の国、絹を求めて大陸からの買い付けが、常時往来していて、情報も豊富に入って来てはいた。
その頃に妹子が入手した情報によると、中国が「隋」と云う名の統一国家になったと云うことであった。
そこで、朝鮮半島の諸国は早速に慶賀の朝貢使を派遣すると云う。

妹子は太子に進言した。
「半島諸国は、この度の隋・文帝を畏れて貢物をする様な事で…。中国の内紛が無くなった今、外へ攻めて来るのは必定と考えまする。我が国は如何すべきでありましょうや? 結果、我が国だけが孤立するのは誠によろしからぬと思いまする。この上は早速、形だけでも朝貢使の派遣が得策と思いまするが…」
「それは一理ある。しかし軍船での訪隋はまずかろうて…。船を造らねばな…」
「お任せあれ…。図面は既に出来あがっておりまする。後は、どなたを遣わされるかでございまするが…」

第一回の遣隋使が派遣された。
わが国の長距離航海技術はまだなかったので、渡来人にガイド役をしてもらった。

航海の安全を願って住吉大社に祈願し、大社の横の細江川から出帆した。
隊長は小野妹子。
先ず瀬戸内を航海する。
九州まで無事到着すれば慣らし航海は完了である。
そこからは玄界灘・東シナ海へ乗り出すと云う航路が取られたが、大抵の場合は不具合が発見されるので、何処か途中で修理と云う風にはなったのであるが…。

妹子は海路・陸路で無事に長安に到着して、歓迎を受けたという。
相手は大国中国、我が国からの献上品の数倍もの下賜品を受け取り、無事帰って来たと云う。
西暦600年の頃のことであった。

しかし、朝鮮半島や大陸の情勢は目まぐるしく変わる。
わが国の親戚国、任那国は国家の存立が風前の灯と云う段階になっていた。
満州に立国する高句麗国が力を持って来ていて、半島の侵略と中国本国への侵略をたくらむまでになっていた。

大陸隋の方は文帝の子、煬帝(ようだい)が帝位についた。
と同時に兄弟たちを殺してしまったと云う。
そのいきさつを見た人々は、文帝をも殺したのではないかと疑ったが、それはさておき、煬帝は勢い激しく、半島までも手中にしようと高句麗攻めを行っていた。
そうなると我が国までもが侵略される恐れがある。

再び妹子、
「大陸情勢が良くありませぬ…。再び朝貢が必要と思いまするが…」
太子は内政で忙しく、それどころでは無かったが、多くの政務処理を並行して行うことができる太子、そこで一計を案じた。

「かの国は儒教の国、我が国は仏教の国へと移行中、仏教思想を使おう。中国と我が国は違う、対等であると伝えてやろう」
と考え、今度は以下の書状を持たせ反応を見るべく妹子を隊長として2度目の遣隋使を派遣した。

『日出處天子致書日没處天子無恙云々』(隋書東夷伝より)
(日出づる所の天子、日没する所の天子に書を致す。つつがなきや?…)

この書状を見た煬帝、激怒したと云う。
そして妹子を軟禁した。
煬帝を激怒させた理由は中国は日没する国との表現、そして日本の国王が中国にしかいない筈の天子を名乗っていると云うことであったと云われている。

しかし本当の理由はこうである。
この時、隋は高句麗と戦争状態に入っていて、煬帝は日本との関係をどうすべきか悩んでいたのであった。
そのための日本の扱いについて、値踏みをしていたのであった。
煬帝も聖徳太子や妹子以上の策士である。

何回もの取り調べに応じ、妹子はあることないことを滔々と喋ったと云う。
内容の真偽の程はともかく、倭の国にこんな有能な外交官がいると云うことに驚き感激し、一流国の判定をしたと云うことであった。
今後も高句麗や半島と戦う上で、日本との友好関係が得策との判断がなされたのであった。

妹子の帰国の際には、煬帝は裴世清らを日本に同伴させ、親交を深めるべくの振舞をさせたのであった。

送って行って、また送られてを何度か繰り返したそうである。
この急接近により、我が国と隋の交流が始まり、隋の進んだ文化が直接入ってくる様になった上に、我が国の外交上の地位も著しく向上したと云う。

それが平城京を中心とするシルクロード文化へと繋がって行ったのである。
太子の計略が、まんまと成功したのであった。
外交は押す時は強気に押す。
現在もこの精神が受け継がれているだろうか?

次は、冥途通いの小野篁である。
篁は地獄の閻魔大王の陪臣として、冥途まで都度出向き、閻魔裁判に関与していた話は有名である。
ここでは篁の軽いエピソードに触れることにする。

嵯峨天皇在位時のこと、『無悪善』と書かれた札が、何者かにより内裏に立てられていた。
天皇は、お気に入りの篁を呼び出し、
「これを読んで見よ」と問うた。
「読みまするが、しかし畏れ多いことでござる。あえて申し上げますまい」
「かまわず申せ」
と、天皇が言うので、篁は、
「さがなくて、よからん。 即ち、帝を呪い申しているのでござる」

「悪」という文字は「さが」という読みがあり、篁は「悪」は「嵯峨」を表していると考えたのであった。
無悪善、すなわち悪(嵯峨)無(なくて)善(よからん) である。

篁の答えを聞いた嵯峨天皇が言った。
「お前以外に誰が書こうか!」
「そうお思いになろうから、申し上げますまいと申したのでござる」
篁がそう答えると、天皇は、
「それでは何でも書いたものなら読めるというのだな!」
「何でもお読み申し上げまする」

すると天皇は「子」という文字を12個続けて書いた。
『子子子子子子子子子子子子』
「ならば、これを読んで見よ!」
篁は、
「猫の子の子の子猫、獅子の子の子獅子」
と読んだ。
「子」は、この時代も、「ね」「こ」「し」と読んでいた。
嵯峨天皇は篁をお咎めなしとしたのであった。

次は六歌仙小野小町である。
小町は小野篁の息子である出羽郡司・小野良真の娘とされている。
小町は本名ではない。
この当時、後宮に仕える女性には町と云う字があてられていた。姉も宮仕えをしていたので、姉は小野町、若い方の妹は小を付けて小町と名付けられたと云われている。

歌人としては有名で、六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙などと、古今和歌集、百人一首など、あらゆるところに登場している才媛である。
そして美人の代表としても語られている。

晩年は京都市の山科区小野に住んだと云われている。
この地にある随心院には卒塔婆小町像や文塚など史跡が残っている。
また随心院では、毎年「ミス小野小町コンテスト」も開かれている。
百人一首には次の歌があり、良く知られている。

「花の色は 移りにけりな いたづらに
我が身世にふる ながめせし間に」

小町の出生地秋田では、米の品種は「あきたこまち」、秋田新幹線の列車の愛称は「こまち」と、彼女の名前は秋田の代名詞のようになった感がある。

最後は小野道風(みちかぜ/とうふう)である。
道風も小町と同じように篁の孫である。
しかし小町とは違い能書家、三跡として有名である。

知っている方もいると思うが、道風は花札の絵柄になっている、
青蛙が柳の枝に飛びつこうとしている場面で、その隣で唐傘をさした貴族人が眺めているのが道風である。

この場面は、道風が書道でスランプに陥り、自分の才能のなさに悲観していた時のことである。
ある雨の日、散歩に出てこの柳に蛙が飛びつこうと云うシーンに遭遇する。
道風は、
「いくら飛びついても、そりゃむりだろう…。馬鹿の一つ覚えか?」
と蛙を馬鹿にして見ていた。
その時、一陣の風が吹いて柳がしなり、無事飛びつきに成功したのであった。

それを見た道風、
「馬鹿はワシだったな…。一生懸命努力をしていると偶然にも恵まれる、それをものにすることができる。これだな!」
と、はっと目が覚め、以後、血のにじむような努力を重ね、成功に繋がったのであったとの逸話がある。

この話は、江戸時代の浄瑠璃「小野道風青柳硯(おののとうふうあおやぎすずり)」にもなっている。

この道風は、「道風くん」として愛知県春日井市のゆるキャラにもなっている。また春日井市では、道風の生誕地であることから、全国規模の書道展も開かれている。

なお、小野篁神社、小野道風神社のそれぞれの本殿は国の重要文化財となっている。

〔をノ段 完〕