小野原(をのはら)街道は、近隣でもあまり知られていない街道である。
この街道は古くから千里丘陵の山間部と南の大坂平野部を結ぶ交通路であった。

大阪吹田市までは、水運が利用できたため、ここから陸路、箕面、池田、伊丹へ物資を運んだり、その逆に、米や青物を大坂へ運んだのであった。

起点となるのは、吹田市山田市場、千里丘陵の東側で、ここには大阪から亀岡に向かう亀岡街道も通っている。
小野原街道の終点は箕面市小野原、京から西宮を目指す西国街道の途中である。
千里丘陵の両側を通る主要街道同士を結ぶ、バイパス街道とも言える。

さて、この小野原街道であるが、今は何の変哲もない街道である。

それもその筈、この千里丘陵は住宅開発、学園立地、公園立地など、目覚ましい開発が行われたところである。
今では僅かに大阪大学の医・歯学部のあたりに少しの緑が残っている程度と言っても、過言ではない。

小野原街道には、変哲のあるものがあった。
それは大阪万博エキスポ70の跡地、万博公園である。
小野原街道をご存じなくても、大阪万博はご存じの方も多かろうと思われる。

万博公園の中も探索した。
広大な公園となっている。

さて、大阪万博が開催されて、既に40年と2年が経った。
折角の機会なので、大阪万博に至る世界の万博の歴史を振り返ってみることにする。

歴史的には、ヨーロッパが発祥である。
18世紀後半のフランス革命のころに、パリで国内の博覧会が開催され、
19世紀中ごろまでに11回を数えたと云う。

同じような博覧会がベルギーやオランダでも開催されており、その国際化の気運が高まったと云う。

第1回目の国際博覧会がロンドンで開催されたのは、1851年のことで、それ以降、各地で開催されて来たのであった。

我が国の参加は第2回のパリ開催の時1867年で、江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩がお試し初参加したと云う。

日本国の正式参加は1873年のウイーン開催の時で、明治政府の初の公式参加となった。

有名な博覧会としては、1889年第4回のパリ博で、この時あのエッフェル塔が建てられたと云う。

日本での国際博覧会開催については1890年に最初の計画があったと云うが、時期尚早ということになり、撤回されたと云う。

その後、1940年に東京で万国博覧会と東京オリンピックを開催することで、進められたが、その頃は、日中戦争が激化していて、軍部の反対や、参加国の減少が見こまれ、オリンピックと共に中止が決定されたのは良く御存じの所であろう。

戦後になって、オリンピックはオリンピック、万博は万博と、別々に計画され、東京オリンピックの後を受けて、1970年に大阪千里丘陵で、万博開催の計画となったのである。

その大阪万博の企画であるが、(財)日本万国博覧会協会の会長理事は石坂泰三氏(当時経団連会長)、事務総長理事は初代が新井真一氏(元通産省官僚)。
新井氏はテーマの画策、テーマ館の総合プロデューサーを岡本太郎氏に依頼、説得するなど奔走したが、なぜか途中で理由不明なまま更迭されたと云う。

新井氏に代わって、鈴木俊一氏(後の東京都知事)を迎え、作業を続けて行ったと云う。
また、万博会場の総合設計を行ったのは、当時飛ぶ鳥を落とす勢いの建築家、丹下健三氏であったと云われる。

このような体制で、開催に向けての準備をしていたが、そこには、一つの問題があった。

万博そのものではなく、古い方ならご存知と思うが、その1970年は、日米安保条約の改定の年にあたっていたのであった。
安保反対運動を、抑え込むために万博をぶつけたとの意見も聞かれたが、それは、計画し企画している人達には極めて失礼なことと、想われるが…。

ご存じかと思う。
70年安保の前哨戦か何かはわからないが、その2年ほど前に東大安田講堂攻防戦など、大学紛争が激しく行われ、学生諸君のエネルギーはそれに費やされ、70年には既に消耗していたと思われる。
60年安保に見られたあのエネルギーは、何処かへ行ってしまった状態であった。

今、穿つと、黒幕がいて、それを操ったのか?とも、邪推できる。

とにもかくにも、学園紛争も終わり、学生諸君も政治ではなく、本来あるべき姿の、学術・文化を求めるようになっていたのは、事実であろう。

ともあれ、70年大阪万博はアジアそして日本最初の万博は、めでたく開催の運びとなったのであった。

千里丘陵を埋め尽くした人また人の波、総入場者は6400万人だそうで、計画値の2倍以上の人数であったそうである。

テーマは「人類の進歩と調和」
月の石や、新しいものに触れようと、連日の長蛇の列・・・。

テーマを皮肉って「人類の辛抱と長蛇」とも云われた。

とにもかくにも、大成功を収めこととなった。

各パビリオンでは、最新の技術や、各国の文化が展示された。
42年経った今、当時の技術提案は、どう進んだのか?
その歴史に触れて見たいと思う。

先ずは万博で展示され、その後普及したものについて、触れる・・。

「エアドーム」。太陽工業社が、アメリカ館などで施工。その後、東京ドームなどに展開された。かつてNHKのプロジェクトXでも、紹介された。
「温水洗浄便座」はガス館で展示。その後はご承知の通り。
「動く歩道」
「ワイヤレスフォン」(電気通信館)。今のケータイの走りとなった。
「ローカル・エリア・ネットワーク(LAN)」。何処にでもあるようになった。
「電波時計」。当時UHFの電波を使い、会場内の時計を合わせたと云う。
「缶コーヒー」(UCC上島珈琲館)
「ファーストフード店」その後、ピザ、ケンタッキー、ドムドムなどに展開されたと云う。
「ファミレス」(アメリカゾーンに出店)

次は、展示されて、いまだ普及途上にあるものに触れる。

「電気自動車」(ダイハツ工業)。既に一部のメーカーから発売されてはいるが、普及には、充電スタンドの整備が必要と云われる。
「人間洗濯機」(三洋電機)。身体障害者用自動洗浄浴槽、介護用浴槽として展開しつつある。

「リニアモーターカー」(日本館、JR)。JRマグレブ方式は、営業線の敷設は、これからである。

残念なことであるが、その後、遊園施設エキスポランドのジェットコースター「風神雷神Ⅱ」で、痛ましい死亡事故が起こったことは、まだ記憶に新しいと思う。
この事故で、運営会社の杜撰な管理が指摘され、最終的にエキスポランドは、廃園となった。

大阪万博跡地は、現在、万博公園として活用されている。
文化施設としては、
「国立民族学博物館」
「大阪日本民芸館」
「大阪府立国際児童文学館」
などである。

市民の憩いの場としては、
「日本庭園」
「自然文化園」
などがある。

スポーツの場としても、活用されていて、サッカーJリーグ、ガンバ大阪のホームスタジアム「万博記念競技場」もある。

今後も人が集まり、楽しめる場所として活用をお願いしたいものである。

シンボル「太陽の塔」が毅然と立ち続けている。
この小野原街道で、最も印象的なことであった。

「賑わいの 宴も終わりて 40年  きらやかなれと 市民憩いて」

〔完〕