京都市の南北を貫く通りの一つに『猪熊通り』がある。
位置で云うと、中心部を南北に通る『堀川通り』と『大宮通り』の間にある通りでである。

猪熊通りは平安時代からあったと思われるが、その名前の由来ははっきりはしない。
上賀茂神社の川を西に渡って始まる通りである。
この辺りは洛外も洛外であるため、猪や熊が出でも可笑しくはない。
洒落も込めてそのように名付けられたとも思われる。

さて猪熊通り、賀茂川に掛かる「御薗橋」の西詰から始まる。
この御薗橋は葵祭の行列が賀茂川右岸を北上して、上賀茂神社に入るときに渡る橋であり、よく知られている。
先ほどの堀川通りもこの場所から始まり、ずっと併行することになる。

猪熊通りを南下して見る。
そんなに広い道ではない。路地の連続のような通りで、ずっと住宅街である。
道が大きくカーブして、また元に戻ったりするが、特筆すべきものは何もない。

暫く行くと左手に紫竹小学校が現れる。
堀川通りとの間にあるようである。
これを横に見て、いくつかの東西の通りと交差し、北山通りに出る。

北山通りを渡ると、道は少し広くなる。
しかし景色は何も変わらない。
相変わらずの住宅街の連続である。
いくつかの通りを横切って進んで行く。

その通りの中に今宮通りと云うのがあった。やすらい祭りや桂昌院の碑で有名な今宮神社前の通りであろう。
ということは、大徳寺の北辺を通る通りでもある。
少し歴史の匂いがして来るようではある。

また暫く行くと、紫野通りに突き当たるが、そのすぐ左に猪熊通りが見えている。
これを更に辿って行く。

道がコンクリートの建物に突き当たる。市立の北図書館である。
この建物の横を抜け、北大路に出る。

しかしここからは南に渡る信号は無い。
堀川通りまで行って、信号を渡って、元の所の向こう側へ戻ってきたのであった。

北大路から更に南に下る。左手に大きなマンションがある。
そろそろ市街地へ出てきたようである。

マンションの先、向こうに神社がある。「玄武神社」という。
そう云えば平安京を造営した時に、東西南北の守り神を設定し、お祀りしたと云われている。
北の守りを玄武と云った。その神であろうと思われる。

この玄武神社に沿って道は大きく曲がって行く。
そして道は細くなる。
道の左手に綺麗で大きいビル建物と、庭園地のようなものがあった。
Dスクリーン社となっている。
今は大手の半導体関係の会社である。

そこを過ぎると道は複雑になり、堀川通りに合流してしまった。
堀川通りの向かい側に、神社がある。
歩道橋を渡って行ってみた。
「水火天満宮」であった。
お参りして、由緒を見てみると、最古の天満宮と書いてある。
なるほど、なるほど…。
天満宮同士でも、歴史合戦があるのかな?と思った次第である。

堀川通りの東側のこの辺りは、一つは法華宗寺院の寄り集まっているところである。
もう一つは、千利休を祖とする表千家、裏千家の茶室、不審菴、今日庵と特に裏千家の茶道学校などがあるところである。
お茶を飲んで、油を売っている場合ではないので、今回はパスして、猪熊通りの再スタートである。

堀川通りの西の日蓮宗妙蓮寺の南側に猪熊通りの入り口があった。
どうも、この寺で遮られてしまったみたいである。
ここから再スタートである。
細い道を辿っていく。
相変わらずの住宅街であるが、商店らしきも混ざってくる。
そうこうしているうちに、今出川通りに出てしまった。

この場所は、応仁の乱のときに西軍の陣地が置かれたところである。
少し西の市の資料館前に高さ3mほどの「西陣」の石碑がある。

通りの向こうには道らしきものが見られない。
とにも角にもまず渡って探してみることにする。

それらしきを見つけたが、車も通れないくらいに狭い。
しかし家並は古く、かつてを偲ばせる風情がある。

暫く行くと左側が神明町、その先の右側が如水町である。
左に安倍晴明の晴明神社と一条戻り橋がある筈であるが、後で見ることにして、先ず黒田官兵衛(如水)邸の址を探そう…。

如水町を一周したが分からない。も一度丹念に探した。
何と、植木と自転車の陰に石碑があるではないか…。
自転車を動かして、カメラに収めたのであった。

如水黒田官兵衛は秀吉に自らの城をも提供し、そして秀吉のブレーンとして働いたが、その才能は秀吉を恐れさせることになり、厚遇されなかったという。

秀吉の中国攻めの時の、備中高松城の水攻め策、中国大返しの策、それに天王山の戦、これらは皆、官兵衛の策だったと云われている。

秀吉が太閤になり、聚楽第を建設したのはこの近くであるが、その周りのこの地に官兵衛は屋敷を造って住まいし、秀吉を助けたと云われている。

しかし官兵衛は豊臣家の統治機構には入り込まず、冷静な目で見ていたと云われる。
賢明な官兵衛は関ヶ原では家康側で戦い、戦功により筑前福岡に大藩を構築するまでになったその黒田藩の祖である。

屋敷跡は400年もの年月を経過して、住宅やら最近のアパートやらが建てられていて、偲ぶものは何もなかったのは残念である。

黒田邸址は一条通りに面している。
この一条通りを東に辿る寄り道をしてみる。

堀川通りに出ると、堀川に掛かる一条戻り橋がある。
平安時代には、この橋はあの世とこの世をつなぐ橋として信仰されていた。
この橋上で願い事をすると、故人と対話ができたり、願い事がかなったりすると云われた。
今で云うパワースポットである。
それは、安倍晴明が橋下に12神将像を隠していたからと説明されている。

また近代でも戦争出兵の時、無事帰還を願ってこの橋を渡って出兵したり、お嫁に行くときは、この橋に近寄るのを嫌ったり、現在でも多くの云われのある橋である。

一条戻り橋を見て、堀川通りを少し北上して、晴明神社へお参りした。
最近人気の神社である。

祀られている安倍晴明は天体の星や雲の動きを観察して、宮殿での異変の予知、遠方での吉凶を言い当て、朝廷を始め人々の信望が寄せられた云われていた。
現在でも、この時に創られた年中行事や、暦術、占法は通用している。

晴明が亡くなった後、時の一条天皇が晴明の御霊を鎮めるために、晴明の邸宅跡に晴明神社を創建したのであった。
当時の境内はかなり広かったと云われているが、秀吉の聚楽第はじめ武家屋敷の建設による規模の縮小、度々の戦火による荒廃を経て、戦後現在の形に整備されたと云われている。

尚、余談であるが、実は秀吉の時、千利休の屋敷が神社の地に建てられていた。
逆らえない利休は、嫌だったのではなかろうか…?

元の猪熊通りに戻る。
更に南へ下って行く。道は細い。
途中で「ありがとう聚楽小学校」横長看板を掲げている校舎後を見た。
廃校になったのか…? と感慨を新たにした。

さらに下る。
白い暖簾を掲げた商家らしきがある。
「萬亀楼」と云う。
宮廷に料理を出していた有職料理の老舗である。
この料理店では、生間(いかま)流式庖丁という料理方を代々が継承してきている。
料理人は烏帽子、袴、狩衣姿で、まな板の上の魚や鳥に直接手を触れずに包丁を使って料理する伝統的な手法で、桃の節句や端午の節句といった時にこの料理方が行なわれる。

この辺りには、文化財的な商家風の建物がいくつか見られる。
通りの両側は整備されているような、落ち着いた風景であった。
程なく丸太町通りに出る。

交差点の右手向こうに、ここにも廃校になった小学校がある。
10数年前に廃校になった市立待賢(たいけん)小学校である。
現在は市の何かの施設になっているようである。

この辺りから南は徳川家康が手を加えたところである。
二条城を中心に、江戸時代の京都を造ったところである。

このかつての小学校の校舎の前の植え込みに、
「京都所司代跡」
「明治天皇行幸所京都府中学阯」
の石碑がある。

調べてみたいが、ここまで歩いてくるとかなり疲れてきている。
次の機会に譲ることにしよう・・。

もうこの場所は、二条城のすぐ北側である。
城壁も見えている。

少し歩くと城の堀の通り、竹屋町通りに出る。
この通りに出たところで猪熊通りは、またまた消滅する。

猪熊通りは城の北大手門に繋がっていると考えても良いが、立ち入り禁止となっていて、そこには入ることができない。

この二条城の向こうから猪熊通りは復活するはずであるが、もうここまでで良しとしよう。
探索はここで終了することにする。

〔完〕