若狭街道は若狭の国・小浜から、近江朽木荘、そして京都大原、出町柳を結ぶ街道である。

よく鯖街道ということが云われるが、鯖街道は鯖を運んだ道であり、運び手がそれぞれ自分合った道を開拓しているために、いくつかのルートがある。
若狭街道もその一であろうと思われる。

鯖街道とは、若狭で取れた鯖を運び手が夜通し歩いて、京都に運んだ道である。
塩鯖にして京都まで運ぶと、丁度いい味になると云う。
運ぶ人達は自分のペースと、味のしみ具合に応じた歩き方をする。
そのために、各人各様の様々なルートが存在したと云われる。

西から、名田庄村を通る鯖街道は周山街道、現在の国道162号線である。
京の高雄へ抜けて行く道である。

その東は遠敷川(おにゅうがわ)から南下し、花背峠、鞍馬街道に至るルート。
最短のコースである。
この沿線には、若狭一ノ宮や、神宮寺がある。
この辺りは奈良に繋がっていて、東大寺のお水取りと緊密な関係があると云う。
神宮寺ではお水取りに対して、お水送りという。
地下で奈良東大寺二月堂の井戸に通じているらしい。

更に東には、小浜から東へ行き、熊川宿から朽木荘に入って行くコース。
朽木荘から南下して比良山の西麓を辿り、京都の大原へ抜ける、いわゆるここで云う若狭街道である。

そして一番東は朽木郷から、琵琶湖西岸の今津へ行き、琵琶湖沿いを京都へ向かうコース。船便も利用したと云う。

他にもまだあろうと思われるが、代表的なものを記した。

運び人は「京は遠ても、十八里」と唄いながら、歩き通したと云われる。
この鯖は京の一般庶民に至るまで喜ばれたと云う。

話を若狭街道に戻す。
若狭街道は小浜から東に向かい、途中で丹後街道と分かれて山間に入る。
そこは熊川宿と云われる宿場町である。

熊川宿は、若狭と近江・京都の関所だけでなく、室町幕府の御家人であった
沼田氏の居城が築かれていたとも云う。
また戦国時代には細川幽斎や里村紹巴が逗留するなど、極めて文化的な色彩が濃かったとも云われる。

熊川宿の本格的な発展は、豊臣秀吉が軍事・物流など、その重要性に着眼したことから、当時の若狭領主・浅野長政が、街道に商家を集めて街作りを行い、小浜港に揚がった物資などの中継地となったことが始まりとされている。

このため、熊川宿は問屋を中継ぎとして馬借や背持人夫が盛んに往来して、賑わいを見せたと云われる。
熊川宿の現在の様子は旧街道として保存され、塗り壁の商家や土蔵など、多数の伝統的建造物や、当時の賑わいを垣間見ることが出来る。

熊川宿を過ぎて、若狭街道は山中に入る。
山地の中に開けたところがある。朽木荘である。

その先、朽木荘から比良山の西麓を通り、花折峠を越えて三千院や寂光院で有名な大原の里に至る。

大原の里を過ぎ叡山の麓、八瀬・修学院を通り、高野川沿いに終点である下鴨神社のあたり出町柳に至る。
若狭街道は物流のみならず、文化往来、軍事往来にも重要な街道であった。

若狭街道の朽木荘には、着目すべき一族、朽木氏がいる。

朽木氏は、宇多天皇に端を発する近江源氏、佐々木氏の子孫である。
かつて近江守護となった佐々木信綱が 承久の乱の戦功により朽木荘を与えられ、領主として曾孫義綱が朽木氏を称したことに始まると云う。

以来、朽木氏は明治に至るまで約650年、同地の統治を行ったと云う。
長寿の一族であったことは間違いない…。
しかし、ただ漫然と生きてきたのではない。目立たないが、賢明な生き方をして来ていた。

室町期終焉の混乱期には、戦乱で京都を逃れた足利将軍たち義澄・義晴・義輝・義昭をそれぞれ庇護したと云う。
将軍の隠れ家としては、山中の孤島、最適であったので、あろうか…。

この朽木氏、大活躍の時期は15代・朽木元綱の頃、世の中は織田信長の全盛期の時であった。

朽木元綱は1568年、足利将軍義昭を奉じて上洛した信長に従ったと云う。
将軍の京への帰還を良しとしない三好一党が、将軍御所・本圀寺に足利義昭を攻めたことがあった。
その時、いち早く駆けつけて、信長が岐阜から京に到着するまでの間、防戦し、三好一党の撃滅に力を発揮して信長に認められたのが最初であった。

この翌々年、信長は家康との連合軍三万にて越前朝倉を攻めた。
大義名分無しでは戦を起こさない信長、この時は、将軍の命にて朝倉の一乗谷に幽閉されている若狭国主、武田元明の救出であった。

信長軍は京を発し、琵琶湖西岸を通り、若狭の佐柿(現美浜町)に到着した。
その翌々日の4月25日、信長は西越前の地へ足を踏み入れたのであった。

敦賀まで進軍した信長は、まず手筒山城を攻めることにした。
手筒山は金ヶ崎の南東に屏風の如く聳え立つ高山ではあるが、信長軍は、山に駆け上がり、千三百あまりの首を挙げて一気に城を落としたと云う。

次に、隣の朝倉景恒が籠っている金ヶ崎城を攻めた。
怒涛の勢いで攻め寄せた信長軍の前に、城衆は戦意を失い、間もなくして降伏した。

次いで疋田城も開城させた。ここまではまさに破竹の勢いであった。

明日にも木目峠を越え、越前本領内へなだれ込もうと考えていた信長ではあったが、気になることが2つあった。

一つは朽木に背後から襲われること。
もう一つは、北近江の浅井に背後を突かれることであった。
この去就を見極めるために、それぞれに細作(スパイ)を放っていた。

「朽木は陣立てしているが、動きなし」との報が常時、入って来ていた。
思いの通りであった。

気になるのは浅井の動き。父親・久政は、親朝倉派であることは分かっている。
息子・長政は信長の義弟であるが、親子の確執でいつどうなるか分からない。

「親父殿が、軍を集めて、今にも出立しそうである」
「長政殿は、動く気配なし」
やはり、思った通りであった。

浅井に、背後を突かれては堪らない…。
運命が変わった。 この時、信長は、「是非に及ばず」とつぶやいたと、
信長公記には、記されている。

「皆の者、退陣じゃ!! 猿!、違った藤吉郎(秀吉)! 金ヶ崎城に入って、応戦しろ! 勝正、光秀は、城外じゃ! その間に、儂は逃げるぞ…! 久秀!、ついて来い!」

これで、決まった。
作戦実行は早い信長軍、もう動き始めたのであった。

信長は駆けに駆けた。
30日には、朽木荘まで到着した。
なぜ、山中を逃げるか?
当たり前である。平地は敗軍の将を襲い、手柄にしようとする輩が、うじゃうじゃいるからである。
朽木も危ないが、5分5分に賭けたのであった。

朽木荘では、元綱軍が臨戦態勢よろしく待ち構えていた。
こういう場面はお手のものの松永弾正、元綱の前にツツッ~と歩み寄って、
「おお、元綱殿、大儀であるのう…。お出迎え恐れい入り申す。お館様もことのほかお喜びであるぞ…」
この一言でほぼ決まりである。

「松永殿、貴殿もご活躍じゃのう…。京の一件以来の、ご無沙汰じゃ…。お館に、我が家にて、御休みなされと…」
「じゃがな元綱殿、貴殿はお味方のようであるが、お館は、まだ心を許していないようじゃがな…」

「そりゃ、そうじゃのう…。お館に、我が子を預けるわ…」
と、早速に、三男・稙綱を久秀に差し出して全軍に命令した。
「皆の者、良く聞け! 今からは、我が主人、信長様をお護りするぞ…。軍を二手に分けて、ここに残る者、京までご案内するもの、それぞれ心して、抜かるで無いぞ! 朽木の命運がかかってるものと、思うが良いぞ!」

信長はこれを聞いて、
「元綱め、勝手に言いよるわ」
と、ほくそ笑んだと云う。

信長は元綱の屋敷で少しの休憩を取り、朽木軍の案内で比良山の西麓を通って、京へ無事帰り着いたのであった。

元綱はこの時以後、信長・織田家に仕えた。
しかしなぜか、厚遇は受けなかったとも云われる。

信長亡きあと秀吉に仕え、小田原の役などの軍功にて、朽木荘二万石を安堵された。

元綱は階段を一気に駆け上がる様な事には興味なく、そして高望みもない、着実なタイプの武将であったと思われる。

大余談をさせて頂く…。関ヶ原の合戦のでこと…。
元綱は、石田三成に誘われてここ関ヶ原では西軍についていた。
元綱は焦っていた。
いま、西軍は確かに押しているが、松尾山の小早川秀秋が動かない。
「金吾中納言殿が動かぬなぁ…。うわさ通り、金吾殿は徳川と事前に通じているのか?」

もう、開戦から3時間も過ぎている。
「今、小早川隊が松尾山を下りてくれば、西軍は勝てるはずなのに…。小早川が動かないのは明らかにおかしいぞ…。秀秋はやはり家康に通じているかもしれないぞ…」

ここで、元綱は意を決したのであった。
「誰そ、紙と墨を持て!」
家康に宛てて書状をしたためた。

元綱の予想は当たった。
正午過ぎに小早川秀秋が突如、大谷吉継の陣に向かって動き始めたのであった。
朽木軍の部隊長を集めて言った。
「皆に申し伝えよ!内府との約束どおり、我らも小早川に続く、とな…」

家康と約束していたわけではないが、士気への影響を考えて、あらかじめ内応していた風に言った。
元綱隊は小早川の軍勢に合わせて、大谷隊を攻めたののであった。

他の隊でも連動寝返りがあった。
小川祐忠や赤座直保、脇坂安治らも、同じくらいの時に寝返った。
皆、同じことを考えていたのであった。

大谷隊は2度も小早川隊を退けるなど大奮戦したが、やがて力尽きた。
他の戦線でも、小西行長などが敗走を始め、小早川隊の寝返りから約二時間で、関ヶ原の戦いの決着がついたのであった。

戦後、論功行賞があった。元綱は減封であった。
2万石から9950石になった。
「内府家康公には味方はしたが、もはや遅かったか…」
元綱は悔やんだ。

しかし、連動寝返りの赤座、小川らは改易だという。
元綱はラッキーだと思った。

家康は、こんなことを言ったらしい。
「朽木? 戦中に寝返った? ふん、朽木など居ても居なくても大した差はないわ」
どうやら、侮られたらしい。

しかし、そうはいいつつも、所領が残り、元綱は素直に喜んでいた。
後になってから、没収分は戻され、実質上の安堵となったという。

自領を護り行くとは、強い方に付くと云うことが鉄則である。
これは武家の習いとして、朽木一族の胸に染みついているのであろう。

江戸時代には、朽木藩と呼ばれたこともあった。
明治の時代まで生き続けたことは、見事としか言いようがない。

「山あいの 朽木の里に 花開く  長き時代の 清流見つめ」

〔完〕