京都の蓮華王院とは通称三十三間堂と呼ばれる。

和佐大八郎とは江戸時代の通し矢のチャンピオン。
但し未だに記録は破られていないので、現在もチャンピオンである。

三十三間堂の通し矢、着物と袴で着飾った成人式を迎えた女子学生の弓を引く姿がテレビで放映される。

かつての通し矢は今のそれとは似て非なるもの、そんな生易しいものでは無く、人の生死がかかっていたのである。

三十三間堂の通し矢、回廊は端から端まで約120mある。
そして、庇の高さは5mくらいしかない。

庇の下の5mの下で120mの距離を、それに2m半の横幅の廊下の上を矢をノーバウンドで通すのである。

120mと云えば丁度、野球場のセンターのバックスクリーンまでの距離、ホームランを打つようなものである。
ホームランはある程度高く上がらないと距離が稼げないが、通し矢は5mの下を通すので、ほぼ、平行に射なければならない。
野球場に民家の2階建ての屋根をかぶせて、その間を矢を通すということが求められたのである。

ということは力強く矢を飛ばさないと、矢は途中でお辞儀して落ちてしまう。
上に上げすぎると庇に当たってしまう。
矢のスピードが重要である。
弓を引く腕力と射続ける持久力が要ることになる。

更に立った姿勢で射ると庇までの空間が少なくなるので、座った姿勢で射たのである。
座って力を出すのは極めて難しい。

この競技は24時間の間に何本の矢を向こう側まで通過させたかを競うルールである
相場は10000本以上射て、8000本位を成功させるという大変なものであった。

元はと云えばこの通し矢、戦国のころから行われていたようだが、家康の肝入りで藩対抗の全国大会さながらのものになっていた。

記録更新チャンピオンを「天下一」と云い、その天下一の回数の上位3傑は尾張藩12回、紀伊藩12回、加賀藩10回となっている。
尾張、紀伊の御三家の競い合いが激しかったようである。

ここは紀州和歌山の城下、弓の練習に余念がない藩の弓道場の一角である。
あたふたと入って来た藩士が大八郎に何やら囁いた。

「なに?、御父上が、死んだ?」
和佐大八郎はその藩士に返した。
「そうだ、尾張の星野勘左衛門に、天下一を持って行かれたのは殿に申し訳ない。そう云い残してな」
「そんな、あほな…。 また戦えばいい」
「そうは、いかないってよ。 もう年だからって、口癖の様に言ってた」
「後は息子に託すって…」

大八郎はまだ15歳の少年、父にはまだまだ甘えていたい年頃に違いない。
母は早くに亡くしていて、一人ボッチになってしまった。

父親は紀伊藩の藩士で、弓術の師範でもある。
大八郎は、忙しい父と離れて、親戚の家で面倒見てもらいながら、弓道場には毎日通っている。

藩士も多数練習場には来ているが、大八郎は大人顔負けの力を持っていた。
誰よりも上手かった。

最近父の姿を見ないな、と思っていたが、通し矢見物に行っていたのだった。
父は三十三間堂にて自害した。
自分の庭が他人の星野の庭になってしまった。
さぞや残念であったに違いない。

父の葬儀も終わった。
父の霊前で「必ずや…」と誓いを立てた

大八郎は世襲にて藩士になった。
弓回り見習いという担当である。
仕事は単純明快、尾張の星野の本数を越えること。
紀伊第2代藩主、徳川光貞の命令である。

和佐大八郎は日々、練習に励んだ。
紀州の練習場には、三十三間堂とそっくりの造作をしつらえて、技術研鑽が出来るようにもなっている。
紀州の伝統である。

大八郎はここでほぼ百発百中になっていた。
いつでも新記録にチャレンジできるレベルになっていた。
しかし、まだまだ体力・精神力を鍛えなければと思っていた。

半年ぐらい経った。
三十三間堂で亡くなった父の噂と息子の評判が尾張の城下にも届いていた。

少し横道にそれる。

和佐大八郎の生地は和歌山城下の和佐村(現、和歌山市和佐)、紀ノ川の左岸である。
青年になった大八郎は190cmもある大男になっていた。

この和佐村には近代になって良く知られた人物の生家もある。
経営の神様と云われる松下幸之助、時代が違うが、大八郎とは目と鼻の先だったと云われている。

今でも、松下公園やら何やら設置されている。
もちろん大八郎の墓もある。

「大八郎だな? お前の命は今日までだな…」
練習が終わっての帰り道、何者かに襲撃された。
わけが分からないが、切りかかってくる。

「貴様ら何者であるか?」
無言でかかってくる。

止むを得ない、城下での刃傷沙汰はご法度であるが、緊急である。
大八郎も刀を抜いた。
武術家という者、一芸だけではない。
剣術も上手い。

膠着状態になった頃、助太刀が現れた。
2人が構えただけで敵は戦意を失った。
助太刀の武士も剣術は上手そうであった。

「かたじけない…。貴殿は何と申されるお方か? 拙者は紀州藩士、和佐大八郎と申す者でござる」
「拙者は星野と申す旅の者でござる。熊野の権現さんにお参りの途中の通りかかりでござる」
「助太刀ありがたし、お礼を申し上げる。道行、無事で行かれよ」
「貴殿もな、また機会があれば会おうぞ…」

この星野とは星野勘左衛門のこと。
現在の天下一の称号を与えられている人物である。
尾張では次の天下一は紀州の大八郎が取り返すに違いないと噂されていた。
星野の弟子達が大八郎を亡きのもにしようとの企みで襲ったのであるが、
「そんな卑怯なことは、許さじ」
と後を追っかけてきたのであった。

通し矢へのエントリーは、藩主のお墨付きが要る。
自信も出来た大八郎、藩主光貞からのお声がかりを今や遅しと待っていた。
痺れを切らした大八郎、藩主への直訴に及んだ。
「蓮華王院の儀、そろそろ拙者にも…」
「大八郎か、ててごには、気の毒なことをした。早く仇討ちしたいという気持ちは、良く分かる。止めろとは言わない。しかしな、仇討ちの気持ちがあるうちはダメだ。なあ大八郎」

その日はそれで引き下がった。
藩主の言葉が胸に響いた。
数日、考えた。
「確かにそうだ。親父と俺だけの私的なものではない。藩の威信が掛かっている。 それに俺をここまで育ててくれたのは父だけではない。殿や藩や先輩達のお蔭だ。ご恩返しが第一である。その気持ちが持てないとダメだ」
ということがわかったのである

そして、半年経った。
「殿がお呼びである」
と武芸方から知らせがあった。

「大八郎、いよいよじゃな。 楽しみにしておるぞ…」
「この大八郎、命に換えましても…」
「命に換えるには及ばず。折角のことだ。京で遊んで来る積りで行って来い」
「ははっ、有り難き幸せにございまする」

大八郎の通し矢は1686年4月26日の夕刻、酉の刻、6時から開始された。
大八郎19才になったばかり、新進気鋭のチャンピオンが誕生するか?
久しぶりの噂の大物登場ということで、三十三間堂は満員御礼状態であった。

松明のほのかな灯りではあるが、通し矢は順調に進んだ。
夜が白み始める頃には、総矢数約5000本射て、9割方の通し矢数であった。
順調かに見えた。

しかし、そんな甘いものではない。
夜明けとともに、ぴたっと止まった。
弓を引くことが出来なくなったのである。
大八郎はゴロンと寝転んだまま、動かなくなった。

誰もがこれで打ち留めと思って、ざわついていた時、編み笠の武士が現れた。
寝転がっている大八郎に何やら喋りかけながら、両の腕を触っていた。

懐から懐紙に包んだ馬針のようなものを取り出すと、松明の炎に当てた。
更に片手で酒徳利を掴むと口に含み、馬針と大八郎の腕に吹きかけた。
そして両腕の鬱血を処置したのであった。
手馴れたものであった。

血を取り出して止血包帯をする頃には大八郎、身が軽くなったのか、起き上がってきた。
暫くボーっとしていたが、やおら矢を番えて放ち始めた。

6000本、7000本、8000本と放っていく。
命中率は少しは落ちたが、昼前には総矢数10000本以上放って、8000本の命中に届く勢いであった。
前のチャンピオン、星野勘左衛門の通矢数は丁度8000本である。
これを越えるのは、もう時間の問題という風になってきていた。

午の刻、正午の梵鐘が鳴るのと、8000本の太鼓が鳴るのと同時であった。
80001本の太鼓が打たれた時には、うお~ゥと歓声と拍手が宙を舞った。
若干19歳の天下一の誕生である

大八郎の目にも涙が浮かんだ。
矢は射つづけるも、当らなくなった。
しばし静かに瞑目した。
これで止めようかと思った。

「勝負は終わった。これからの1本1本は殿を始め皆への恩返しである」
と思い直した。

1本1本、丁寧に射た。
射るごとに拍手が起きた。

終わってみれば、通矢数8133本、総矢数13053本の大記録であった。

先ほどの馬針の遣い手も、見物客の中で涙ぐんでいた。
何を隠そう、星野勘左衛門その人であった。

「長き堂  放つ一矢に  力込め
願い届けよ 仏も護る」

〔れノ段 完〕