京都の洛北にある離宮道は白川通りから東へ、比叡山の山麓の修学院離宮へと向かう道である。

この修学院離宮と洛西桂川の畔にある桂離宮は平安王朝の時代を現出するものとして、江戸時代の初期に誕生した。

大坂の陣も終わり、戦の時代の荒廃からの復興を目指し、また天皇・朝廷・公家と幕府の関係の正常化を目指して、それぞれが新しい、融和の関係に行くものと思われていた。

しかし将軍家康、秀忠も人の子、偉くなると、やはり天皇の人事まで口を挟むようになっていた。歴代の武力支配者と同じであった。

そうなると当然のことながら、天皇と幕府の対立は深まることになって来る。

徳川の長き世をこれから作り出していこうと思えば、対立は得策にあらずと考えた家康や2代目秀忠、その対立を回避すべく、そして政治外のことに関心を向けさすべく、力を注いだ。
その施策の一つが、離宮の造営であった。

天皇・公家方は豪華絢爛ではあるが武家の匂いのする桃山文化にはもう辟易し、振り向きもしない。
彼らのルーツ、平安時代の先輩諸氏が築き上げた王朝文化に関心が向いていたというか、向かされていた。

池に浮かべた船上で和歌を詠み、管弦を奏で、酒宴を楽しむ、『源氏物語』に描かれる王朝文化スタイルを、郊外の山や川に臨んだ場所に実現するとの気運が盛り上がった。

その離宮はと云うと、数寄屋造の建物群のまわりに意匠を凝らした茶屋を配し、船遊びができる広大な苑池を設けた、かつての王宮の庭園、そのものであった。

修学院離宮を徳川の財力で造園・整備させたのは、後水尾上皇の発案であった。
叡山の西麓、修学院という名の地に5年足らずで造営され、1659年春にひとまずの完成を見たと云う。

離宮は中核をなす3つの御茶屋と、その間を結ぶ松並木で構成されている。

上御茶屋はこの地に以前からあった上皇の茶屋・隣雲亭を中心に、眼下に大きな浴龍池(よくりゅうち)が広がる大庭園である。

中御茶屋は、後水尾上皇の皇女・内親王のために造営された朱宮(あけのみや)御所を前身とし、上皇の死後、林丘寺(りんきゅうじ)という寺に改められたが、その境内の約半分を離宮として併合したものである。
なお、林丘寺は今も門跡尼寺として存続している。

そして、木々に囲まれた趣のある庭園の下御茶屋がある。

広大な敷地の三つの御茶屋庭園と松並木以外は田畑であり、現在も委託により、米や野菜が育成・収穫されている。

離宮の中を歩いていると、農村地帯に来た様な錯覚を起こすほどの広大な農地があるのには驚かされる。

修学院離宮の直ぐ南に叡山より流れ降りる音羽川がある。
その川を遡り、比叡山頂や延暦寺へ向かう道を「雲母(きらら)坂」という。

きらら坂は叡山開闢(かいびゃく)以来、多くの僧たちが登り降りした宗教の道であった。
そして僧兵や戦士が登り降りした戦の道でもあった。

ご存じの法然、親鸞は、山上から京の街まで、毎日往復したと伝えられる。
千日回峰行という荒行である。実際は山中の行もあり、歩行は約80キロ、17,8時間に及んだと云う。
誠に、修行と云うものは厳しいものである。

こういう、真の仏僧もいるかと思えば、叡山の僧兵達が、琵琶湖側の坂本・日吉神社の神輿を担いで、きらら坂を下り、朝廷に強訴に及んだこともあると云われる。
まさに歴史の古道である。

あの織田信長軍が延暦寺を攻めたことがある。
1571年のことである。

そのころ近江の国北部には朝倉・浅井連合軍が、南部には六角が、またその後ろには上杉・武田が控えていた。
伊勢北部には本願寺勢力があり、大坂方面には本願寺本家と三好三人衆が、大和からは松永勢が取り囲んでいる。
信長はまさに「四面楚歌」の状態であった。

1571年の正月、岐阜城での慶賀の礼もそこそこに早速軍議が開かれた。
「のう細川殿、まずは近江南部の平定が肝要かと思うが、どうじゃ?」
「近江の南部は京への進路、これの確保は何を置いても大事でござる。朝倉・浅井は去年も叡山へ逃げ込み陣を張った。叡山をおとなしくさせておくのが、近道と存ずる」

「光秀はどうじゃ?」
「細川殿の言わっしゃる通りでござる。叡山さえ我が軍にお味方してくれれば…。しばらくの時をいただければ、この光秀めが、叡山を手に入れて見せましょうぞ」
「光秀は、悠長だのう。そんな時間は無いぞ。三好や松永が京を狙っておる。その前に、頭上の憂いを除いておくのが肝要じゃ」

「叡山懐柔か?攻撃か? ことは急を要するぞ…。光秀は、坂本でくそ坊主どもを懐柔して見ろ! 他の者は、攻撃の準備、抜かりなく!!」
「猿、お前は、近江の南北を遮断せい!陣を張ってな ややこしいものは斬り捨てて良いぞ…」
「長秀、お前は佐和山城を落とせ! 1ヶ月以内にな!」

信長包囲の危機の打破、先ず近江平定からスタートの方針に決定された。
決まったら直ぐ動くのが信長軍の特長である。
あくる日、光秀、秀吉、長秀、勝家の指揮官、早速持ち場へ急いだのであった。

長秀は佐和山城を予定通り2月に落とした。
秀吉も、姉川辺りで陣を敷いて、南北の陸路、水路を遮断していた。
一向宗と浅井長政が、結託して南下を試みたが、秀吉軍に粉砕された。

いよいよ、8月半ば信長の出陣となった。
小谷城を攻めたりしながら、西進した。
9月になって三井寺を本陣として、攻撃の準備は整った。
懐柔策を弄していた光秀は、一旦休止、本隊に合流した。
軍議が行われた。
「一人残らず撃ちとるべし。夜間は逃げるのもいる故、攻撃は早朝をもって行う!!」
「光秀は、京都側へ回れ!! 逃げて来る者を、殺しながら山へ登れ! 良いな!!」
「猿は、北へ回れ!」
「その他は、坂本の僧坊を攻めて、くそ坊主を殺せ!!」
「邪魔する奴は、誰かれ構わず皆殺しにせよ!」
「後ろから、内通した輩が、我らの背後を襲うやも知れん。これも良く見ておけ!」

攻撃は、9月12日、日の出と決まった。

実は、このころの叡山は腐っていた。
学問をしない僧が大半となって、坂本の僧房でゴロゴロしていた。
山の堂宇は東塔付近を除いて、かなりさびれていたようである。
坂本を片付ければ、戦いはほぼ終わったものと踏んでいた。

夜のうちに布陣は終わった。
出撃の法螺貝が鳴った。
粛々と、僧房に火をつけて行く信長軍の先で、山へ逃げるしかない僧や町人。
日吉神社目指して、さらに奥宮の八王子山へ向かって逃げた。

信長軍は3万人の大軍であった。
坂本で1万、日吉神社で3千、山に直登する隊5千、残りは秀吉と光秀で北と西の固めである。
完璧な作戦であった。

百戦錬磨の信長軍から見れば、赤子の手をひねる様な戦いではあったが、伏兵に注意しながら、粛々と進み、手向かう者を殺して行った。

昼前には、全軍山上に集結し、
高僧、智僧ことごとく首を刎ねたと云う。
そして、堂宇に火を付けた。
次々に燃え上がった。
京や近江から、炎が良く見えた。
北近江の浅井の小谷城からも見えたそうである。

この時に、光秀軍が登ったのがこのきらら坂であった。
当時の大寺、一乗寺に集結した光秀隊は、三千から四千、幾手にも分かれて、本道のみならず、側道、間道、けもの道までも使って登った。

光秀隊の主な仕事は、山から逃げて来る者を退治することであった。

光秀は全軍に一言だけ指示していた。
「猿は神の使いである 殺すな! 牙をむく猿は確実に殺せ! 後の災いじゃ」

きらら坂、沢山の猿が降りて来たと云うが、一匹(一人)も殺さなかったと、云われている。
このような猿たちが、のちのち、織田の隠れた力になって行ったものと 思われる。

光秀隊は叡山西側の瑠璃堂周辺に集結した。
その時、叡山が焼けるのを見たと云う。そして山伝いに信長本軍に合流したのであった。
瑠璃堂はそのままになって、ただ一つ焼けなかったお堂として、残ってしまったのであった。

このきらら坂、過去の人達の所業を偲び、一度は登ってみたいと想う。

全くの蛇足であるが、この光秀隊に比べ北の仰木口を守った秀吉隊、通行料を収めた者だけを逃がしたそうである。
秀吉の手元には、相当の叡山の宝物が、集められたとのことであった。

大将によってこうも違うものかと、人柄の妙には考えさせられるところがある。

「叡山の 峰々仰ぐ きらら坂  もののふ達の 所業偲ばむ」

〔完〕