落柿舎という草庵は京都嵯峨小倉山の麓、二尊院の林の外れにあり、庵の前は田畑で四季折々の山野の移ろいが感じられる場所にある。
ご存知、松尾芭蕉の弟子の1人、蕉門十哲の1、向井去来の別宅である。

向井去来は長崎の出身で武家である。
父親が儒医・天文学者であり、25歳の時に父について上洛し、儒医・天文学を学んだ。
過ごしているうちに、五条の遊女と世帯を持って、それからはもっぱら俳諧に深入りしたそうである。

去来は嵯峨野の魅力に惹かれ、この地に庵を建てた。
頃は江戸初期の1600年代後半のことである。

この庵には40本もの柿の木があった。
たわわになっている柿を見て、ある商人が先払いで全て買い付けたのだが、その夜に大風が吹いて柿の実が全て落下してしまった。
困り果てた商人に、
「これは貴殿に責任は無い」
と、去来は気持ちよく全額返金したという。

このこと以来、去来は自らこの庵を「落柿舎」と名付けた。

去来はこの落柿舎を俳人だけでなく、農夫や町人も出入りする俳句道場とし、俳句以外によろず相談ごとにも応じていたと云う。
人間味ある暖かい人物であった。

『柿主や 梢はちかき あらし山 去来』の句碑が庭園の一隅にある。
他にも、この落柿舎には、今昔多くの歌人の句碑が立っている。
まさに俳句の殿堂という感がある。

筆者のような侘び寂び風流を理解し得ない人間でも、その気分には浸れる。

この落柿舎にはこのような制札が掲げられている。
云い得て、妙である。

「落柿舎制札」
1.我家の俳諧に遊ぶへし、世の理屈を謂うべからず
1.雑魚寝には心得あるべし、大鼾をかくべからず
1.朝夕かたく精進を思うべし、魚鳥を忌むにはあらず
1.速に灰吹きを棄つべし、煙草を嫌うにはあらず
1.隣の据膳を待つべし、火の用心にはあらず
右條々
俳諧奉行 向井去来

去来一流のユーモアに思える。

この落柿舎の北100mぐらいのところに、多くの歌碑に囲まれて『去来』とだけ刻した小さな墓標がある。
また、その近くには、西行法師が利用したと云われる西行井戸もあって、庵もあったそうである。
句碑は落柿舎にある。
『牡鹿なく 小倉の山の すそ近み
ただ独りすむ わが心かな  西行』
否が応でも、雰囲気を醸し出している。

芭蕉は去来を弟子の中では一番信頼していて、生涯に3度訪れて、2度目の訪問の時に『嵯峨日記』を著した。
芭蕉は4月18日から5月4日まで、嵯峨野を歩いたり、やってくる知人、弟子達と楽しく毎日を過ごしたようである。
去る日の前日に、
『明日は落柿舎を出でんと名残をしかれば、奥・口の一間々々を見廻りて、
五月雨や 色紙剥ぎたる 壁の跡  芭蕉 』
で締めくくっている。
よほど、気に入ったようである。

芭蕉は落柿舎を後にして、大津粟津義仲寺の庵、無名庵に戻った。
1691年5月のことであった。

余談であるが、この無名庵、義仲の妻、巴御前が夫の菩提を弔うために建立、名付けたものである。

こののち芭蕉は江戸に行き、深川に新しい芭蕉庵を建築するなどで忙しい日々を過ごした。

3年後の春、故郷伊賀の上野に戻った芭蕉は落柿舎を始め京都・大津などを廻ったのであった。

その年の9月になって上野から大坂への旅に出かけた。
大坂の門人、之道と酒堂の仲が悪くなっているので、その仲を取り持つために行ったのであった。

大坂では芭蕉は酒堂の家に先ず入り、その後、之道の家に移っている。
その時芭蕉は10日間ほど、悪寒・頭痛に悩まされたのであった。

薬のおかげか気分も良くなったので、月末近くには俳席にも出た。
その時の吟は、
『秋深し 隣は何を する人ぞ  芭蕉』
であった。

この後も、これを発句として俳席が行われたが、芭蕉は病床に臥してしまった。

10月になり病状更に悪化、いよいよ差し迫り、近隣畿内の門弟達に急が告げられた。
病床にて、気力を振り絞り、
『旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る 芭蕉 』
と詠んだ。

芭蕉はいよいよを感じたとき、遺言は口述でしたためられた。
10月12日、多くの弟子達に見守られながら帰らぬ人になってしまったのであった。
この大坂への旅が芭蕉最後の旅になったのである。
このとき芭蕉は51歳であった。

翌日、芭蕉の遺骸は去来を始め多くの弟子達に伴われ、淀川を遡り大津の義仲寺に到着、葬儀が営まれた。
その後、遺言通りに源義仲の墓の隣に埋葬されたのであった。

芭蕉の忌日は「時雨忌」と呼ばれ、毎年11月に法要が営まれている。

「 俳諧の 旅は浪花に 留まれり 」

「 竹はやし 柿の落つ見ゆ いほりかな 」

〔らノ段 完〕