京都の亀岡市を横断する昔からの道がある。
この道は湯の花温泉を真ん中にして、東は亀岡の市街地から、西は丹波篠山へ超える山道の手前までの道である。
現在は国道372号線として整備されている。
街道として特に名前が付いているわけではないが、湯の花温泉を通る街道として、この道を辿り、往時を偲んでみることにする。

まず出発点をJRの亀岡駅とするが、その前に駅東の保津川まで行って、川下りの乗船場を見ることにする。

丁度夏のシーズンであったので、亀岡の保津川べりに設けられた乗船場から次々と手漕ぎの船が発進している。
聞くと乗船まで40分待ちであった。

保津川下りの船は底の浅い船であるが、それでも底を擦るところもあり、幾つかの急流ヶ所を抜け、嵐山の渡月橋の手前まで16km、約2時間に達するスリル旅を楽しむ事ができる。

保津川河畔を後に、駅に戻り、そこから西へ向かうことにする。
駅前の通りを行くとすぐに現れるのは、亀山城址の内堀である。
亀山城は戦国時代に、信長軍団の武将・明智光秀が丹波国平定後に築城したものである。
その時は三層の天守を抱いた城であったとの記録がある。
光秀はこの亀山城をベースにして、この丹波国を治めたのであった。

築城開始は1578年、4年後信長の本能寺事件の時には、光秀は中国出陣の準備をしていて、本能寺に駆け付けたが間に合わなかった。
おまけに秀吉からはその事件の犯人にされてしまい、秀吉の演出した信長の仇討劇に、秀吉の敵として戦わざるを得なくなってしまった。
そしてその結果、丹波も近江坂本も、一族郎党も失うことになってしまったのである。

余談であるが、光秀の敷いた善政は今もって亀岡の人たちに慕われていて、光秀を偲ぶ祭りが町を挙げて開催されている。
同じように光秀が治めた近江の坂本も、ここと同じようである。

この亀山城はその後、秀吉配下の城となり、豊臣秀勝続いて小早川秀秋、前田玄以が入城した。
江戸時代になって五層の天守を持つ城として大改修がなされ、江戸中期からは形原松平氏の居城として、明治まで続いている。

しかし明治期には廃城とされ取り壊され、跡地は市民に払い下げられたが、荒廃の一途を辿っていた。
それに目を付けたある新興宗教のO教が購入し、綾部の本部に次ぐ拠点とした。
その後も跡地を巡って紆余曲折があったが、現在もその宗教法人の持ち物となっている。

道は城の裏に当たる馬場通りを進むのであるが、迂回して城跡の周りを回ってみる。
東側には、教団への正門となっているのであろう綺麗な入口がある。
しかし城内は教団の敷地であるので、入るには許可が要る。
残念ながら、ここから教団の建物を眺めるだけとなった。

次は城跡の南側である。
城跡の南側には、亀岡高校、亀岡中、亀岡小と順番に仲良く並んでいる。
これらの学校の敷地はまだ城内である。
従って、さらにその外側の道を歩く。

中学の裏手に形原神社と云う神社を発見した。
その入り口に「大手門跡」と記した立札も発見した。
形原神社とは、家康を宗家とする形原松平氏を祀る神社である。
家康に従い、長篠の戦や小牧・長久手の戦いで武功を挙げ、諸藩の藩主を務めた。
そして江戸中期から明治になるまで、ここ亀山藩の藩主であった。

城跡の西側を通って元の馬場通りへ戻る。
この先西へ国道9号線を横切り、更に西へと進む。
かなりの距離があるので、車で急ぐことにした。

途中右手に亀岡コスモス園がある。
少し寄り道。
休耕田を利用して、約5haの広さに20品種約800万本のコスモスが植えられている。
時期的に外れているので、コスモスの姿を見ることはできない。
残念であるが先を急ぐことにする。

少し行くと湯の花温泉の歓迎門があって、旅館街へと入る。
天然ラジウム温泉の17℃の冷泉である。
11軒の旅館が並ぶ温泉街独特の雰囲気を醸し出している。

湯の花温泉の歴史は戦国時代まで遡る。
その当時、戦で傷ついた武将武士達が湯治に利用していたと云われている。
当然のことながら、光秀公もこの先にある寺にお参りした時に、立ち寄ったものと思われる。

しかしその後はごく最近まで寂れていた。
そして、昭和の中ごろ、この場所にバイパス道路が建設される時に、戦国武将が湯治に訪れたという古文書に基づいて温泉調査が行われた。
そして首尾よく源泉が発見され、現在の温泉街が建設されたのであった。

湯の花温泉には、直径1cm程度の「桜石」と呼ばれる石が出る。
天然記念物となっているが、この石の断面は、どこを割って見ても桜の花びらに似た模様が浮かび上がるそうである。
伝説では、昔この地に住み着いた鬼を封じたのがこの石だと云われる。
この桜石の霊力によって封じられた鬼の涙が湧いたのが湯の花温泉であるとも伝承されている。
さらに、この桜石での鬼封じが、節分の豆まきであり、全国に広まったとの言い伝えもある。

湯の花温泉から再び車を利用して西へ向かう。
少し行った右手山裾に「谷性寺(こくしょうじ)」と云う寺がある。
桔梗寺とも光秀寺とも云われる寺である。
丹波国主当時の明智光秀が、この寺の不動明王をこよなく愛し、よくお参りした寺である。
明智家の桔梗紋に因み、境内あちこちに桔梗が植えられている。
参道の桔梗を眺めながら光秀門を潜り、光秀の首塚にお参りし、ご朱印を書いて頂いたこの寺の庵主さん(奥様かもしれない)から少し話を聞いた。

いきなり、
「亀岡市では光秀さん・ガラシャさんをNHKの大河ドラマにしてもらおうと、署名活動をしております。ご協力いただけませんか?」
「それは是非に…。上手く行けばいいですね…。」
署名をさせていただいた。

「光秀さんと云うよりも、亀山城の遺構があるんですよ。千代川小学校の校門と、この寺の本山大覚寺にです。行かれましたか?」
嬉しい紹介である。

「いえ、聞き始めです。行ってみますので、その小学校の場所を教えてくれませんか?」
地図を持ってこられて、
「大体、この辺りです。大覚寺は分かりますね?」
「わかります。じゃあ帰りに寄って見ます」
と、早速、谷性寺を後にしたのであった。

湯の花温泉を通って来た道は、この先、田園風景の中を走り、いくつかの山間を抜け、兵庫の丹波篠山に至るが、今回の街道旅はここまでとした。

帰りに、千代川小学校を探して行ってみた。
確かにあった。
亀山城の長屋門の遺構である。
児童たちは、登下校にこの門をくぐるそうである。
大将やお姫様になった気分になるに違いない。

最後に大覚寺に回って見た。
明智門と書かれた堂々とした門の遺構があった。

〔完〕