京都伏見の「毛利橋通り」は桃山毛利長門町の西、国道24号線を挟んで、御香宮(ごこうぐう)神社の北の塀に沿って、西に向けて発する通りである。
この通りの途中に琵琶湖疏水の延長である濠川(ほりかわ)を渡る橋を毛利橋と云う。
その橋の名前が、この通りの由来である。
伏見の町の町名は、秀吉が晩年、伏見城を築き大名諸侯の屋敷や町民衆の城下町の割り振りに起因していて、町の人々もその名を大切にしている。

いったい毛利屋敷は何処にあったのか?
まずは毛利長門町であろうが、毛利橋の近辺にあったとも、少し南の薩摩藩の常宿で坂本竜馬が襲われた寺田屋の川を挟んで斜め向かいにあったとも云われている。
恐らく何回かの移住があったのであろう。

毛利屋敷の所在はともかく、この毛利橋通りを東から西へ探歩してみることにする。

まず出発点の御香宮神社である。
この神社は神功皇后を主祭神とする。
他にも、皇后の夫である仲哀天皇や子の応神天皇なども祀っている。
この神社は安産の神として崇められている。
また、神社から湧き出る御香水は、その水を飲むと病気が治ったとの言い伝えがあり、伏見の酒造りもこの水を使って始められたのであった。

御香宮は秀吉の伏見築城に伴い、城内へ勧請されたのであったが、家康の時代になって現在の場所に戻された。
神社の表門は伏見城の大手門が移築されたものである。
そして神社の神苑は移築の時に、小堀遠州によって造園されたものである。
また、伏見で生まれた家康の子供たちは、この御香水を産湯に使ったと云われている。

神社の塀際に西へと進んで行く。
当座は住宅街である。
間もなく近鉄電車のガードを潜る。
そして京阪電車の踏切を渡る。
この辺りの町名は京町、銀座町、商店と民家が混在するところである。

道は下りである。
暫く行くと左手に小さな酒蔵がある。
FO酒造と云う。
以前からここの「蒼空」と云う酒に興味があったので、中を覗いてみる。
店の中には、Barもある。
一本買い求めて、店員さんに由緒を伺った。

FO酒造は元々は明治期に京都東山で酒造業を始めた。
大正期に伏見のこの場所に移動して、昭和・平成の初期まで酒蔵を営んでいたが、蔵元の急死により一旦廃業した。
何とか再興をと願い、現蔵元が8年前に再開して現在に至っている。
店員さんの熱意も感じられた訪問であった。
購入した酒は後程味わって見ることにする。

歩を西へ進める。
右手に図書館がある。
左手に次の酒蔵HW酒造の本社事務所がある。
思い出した。
この場所、以前に来た。
確か濃い味の酒粕ラーメンの店のあるところである。

ラーメン屋さんの辻を通り過ごして西へ進む。
虫籠窓の綺麗な商家を左手に見る。
このあたりからは、旧の民家や商家が並ぶようになる。
その間を進んでゆく。

暫く行くと濠川に出る。
この川に橋が架かっている。
これが通りの由来の毛利橋である。

橋の上から眺めると、川沿いの南東に大きな酒蔵が見える。
全国的に知られている「GKK」の昭和蔵である。
ここは紀州藩邸の跡だったと云われている。

この機会にGKKと伏見酒について少し調べてみる。

一般に「灘の男酒、伏見の女酒」と云われる。
男が好んで飲む酒、女が好んで飲む酒という意味ではない。
それも多少は関係するかも知れないが、主には仕込みの水による酒質に関係する。

灘の酒の仕込み水は、六甲山の伏流水「宮水」である。
六甲山を形成する岩盤は花崗岩が多いので、その水質はミネラルが豊富な中硬水であるため、キレの良い辛口の酒が造られる。
これを「男酒」と称しているのである。

一方、京都の伏見の水は「伏水」の名前の由来が示す通り伏流水であるが、ここは軟水で、朝廷から「御香水」の名を賜っている。
桃山丘陵をくぐってくる水で、どちらかというと甘口の優しい酒が造られるので、「女酒」と称されている。

伏見に秀吉の手で城下町が造られると、当然のことながら、酒が造られることになる。
上手い具合にここには「御香水」があり、それで酒が造られた。

江戸時代になって、参勤交代の制度ができ、西国大名は大坂から船で伏見港に上陸し、旅装を整えるために暫く逗留した。
そこで改めて大名行列を成し、東海道を江戸へ下るようになった。

このころは伏見は既に城下町ではなくなっていたが、西国の大名の参勤交代の必要性から、多くの大名屋敷や倉庫や旅籠が並んだ重要な拠点となっていたのである。

当時、酒蔵の数は急増して1657年には83軒もあったと云われている。
GKKの前身「笠置屋」が大倉治右衛門の手によって創業したのは、その20年も前の頃であった。

余談であるが、この頃に創業して、現在まで続いている酒蔵がもう一軒ある。
当時の屋号は「鮒屋」と云い、現在の北川本家、酒銘は「富翁」である。

しかし伏見の酒造はその後、平穏無事ではなかった。

江戸幕府は灘や伊丹、池田を幕府直轄の酒造地として手厚く保護した。
秀吉の匂いのする酒はまかりならなかったのであろう…。
そして京の町へ伏見の酒が入ることをも禁止した。
伏見の造り酒屋は瞬く間に減って行ったと云われる。

時代は下って、幕末の鳥羽伏見の戦いの勃発により、酒蔵の殆どが破壊されてしまったのであった。
勤皇か佐幕か知らないが、他人の街を戦の名を借りて簡単に破壊してしまい、責任は取らないことが、ずうっと連続していた時代であった。

京都の人々は、街を焼かれたりすることには慣れている。
意地でも他人の手を借りずに再建するのが、京都人のいいところであるが、悪いことに天皇が東京に行ってしまっていた。
都ではなくなった京の人々は、それでもあの手この手の産業興隆策を実行した。
その中に勿論、酒造業の再建もあった。

伏見の酒の盛り返しには目覚ましいものがあった。

その成果は明治四十四年に開かれた政府主催の全国清酒品評会に伏見から28点の出品がなされ、そのうちの23点が入賞の栄に輝いた。全国の最高位を占めていた。
そのなかでもGKKは最優等の栄冠を博した。

幕府の施策に守られ、胡坐をかいてきた灘の酒蔵たちは驚いたという。
その時以来、伏見は天下の酒処として、名を轟かせたのであった。

以来、伏見の酒は栄えてきた。
中でもGKKは全国トップシェアを維持し続けた。
しかし現在は灘のHT社にトップの座は譲っているが…。

GKKの拡大戦略はカップ酒であった。
明治の末にはすでに駅でコップ付きの酒を売ったという。

そして、今から20年弱前に、業界初の200mlカップ酒を売り出し、業界は右に倣ってくれた。
業界が見習ってくれたことにより、GKKは先駆者利益をしっかり得ることができ、さらにトップシェアになって行ったのである。

も一つ、GKKは米国へも比較的早い時期から進出していた。
その関係で、米国内でのシェアは現在は25%もある。
当時は「GKK」が日本酒の代名詞であったが、その後他社の進出もあり、「Sake」又は「Japanese Sake」と呼ばれている。

昭和3年のこと、近鉄京都線(当時奈良電鉄)が京都と奈良間に電車を走らそうとして、伏見の町の縦断と、陸軍工兵隊練兵場を横断する路線を計画した。
民間鉄道が軍用地を横断するなんてとんでもないことで、許可されるわけはない。
そこで窮余の策として、伏見の町の区間を地下化にすることに変更したそうである。

しかし地下と云えば井戸であり、水脈である。
申し入れられた伏見酒造組合は、酒の生命でもある仕込水の井戸があるところに地下電車を通すなんて、もってのほか…。
強硬に計画変更を申し入れた。
併せて軍部や鉄道省に、少しは譲りなさいと申し入れたそうである。

その結果、軍部は説得されて、工兵隊練兵場西部に高架による用地使用を認めさせたと、いまだに語り継がれている。

GKK社を見てついつい長くなってしまったが、伏見の酒の歴史にはこのようなことがあったのである。

毛利橋を後に、更に西に進む。
行く先に何やら川の土手らしきものが見えて来る。
東高瀬川である。
毛利橋通りはここで終点となった。

後はおまけ探歩である。
東高瀬川の土手に上がって見ると、川沿いに酒蔵が見える。
酒蔵に近づくように堤防の上を歩いて見た。
南の筋まで出てしまった。
大手筋である。

酒蔵はMT酒造であった。
ここから東へ戻ることにする。
濠川を渡る手前、橋の袂に坂本竜馬の避難の材木小屋の跡があった。
そして反対側に、富翁で知られる「KT本家」の酒蔵が見える。
左手はまたGKKである。

この大手筋を東進して、アーケードの商店街に入った。
比較的賑やかな商店街である。
ここを右手に行けば、竜馬通りや寺田屋に行くことができるが、またの機会にすることに…。

間もなく電車の駅に到着、探歩を終了した。

〔完〕