大阪の東北部に交野市という所がある。
その中心街に私部(きさべ)という昔からの大邸宅の集落があって、その外れに「私部城跡」、それに肩を並べるが如くに、「無量光寺」や想善寺、光通寺と云う名の、謂れのある寺がかたまっている。

今回は、その私部城と本願寺無量光寺が関係する話である。

本能寺の変の10年と少し前、織田信長は「天下布武」天下統一を目指して、室町将軍の京都に居座り、そこを拠点として畿内やその周りの四方八方の敵と戦っていた、と云うよりは戦いを仕掛けていた、この方が正確である。

それは、天下統一を目指していたのは信長だけで、他の有力武将達と云えば、未だその権益を失いたくない室町将軍の要請に応える形での動きをするのみで、あまり真剣には取り組んでいなかった。

武田信玄、山梨甲府から三河辺りまで出てきたが、病没にて到着せず、信長は助かった。

上杉謙信、越後から加賀越前までは出てきたが、これも途中にて退却、これも助かった。

西の毛利はと云えば天下には関心なく消極的で、もっぱら外野からの物心の援助のみでの対応であった。

なぜ皆、消極的なのか? 答えは簡単である。
それぞれは国持ちの大領主であり、自領と領民の安寧が最大の関心事であったからである。

これら大物が天下に関心があり、この時に信長軍と激突していたとすれば、日本の歴史も大きく変わっていたに違いない。

本願寺はかつては京都の山科と云う所に本拠はあった。
山科本願寺は、その力を持ちたるが故に、当時の武将、細川晴元に武力にて滅ぼされた。 そして焼かれもした。

本拠を失った本願寺、加賀には拠点はあったが、そこは不便でもある。
法主蓮如の時に、当時はまだ未開であった大坂上町台地、現在の大阪城の地に石山本願寺を建立した。

武家に潰されたというショックから、本願寺は武装すべしとの方針になった。

そのころ武装するには事欠かなかった。
主を失ったいわゆる浪人武士が巷にわんさといた。
本願寺に抱えられるということで、腕の立つもの、戦略に長けたものが数多く集まってきた。
またたく間に、本願寺軍団が出来上がってしまったのであった。

当時の寺社は自らの知行地を経営している。
それもかなり広い。
経営するということは、土地と民の生活を護るということである。
侵入してくる者と戦い、追い払う責任が生じていた。
そのためには当然のこと武力備えも必要なことであり、当時の状況からは誰も否定はできない。

否定したのがいた。 信長である。
本願寺を本気で潰しにかかったのである。

しかし信長の勢力はまだまだ弱小である。
同時に何カ所での戦いをするような力はない。
逆に、同時に複数の敵から攻められたら、これはアウトである。

信長の幸いは、明智光秀のという天皇や禁裏に力を持つ部下がいたことである。
危ないと思ったら天皇勅命での和睦を敵に強いる。
その戦線をとりあえずそのままにしておいて、別の戦場に行けたのである。

各個撃破戦略が見事に結んでいったのであった。
信長は賢かったというより、ラッキーであったというほうが当たっているかも知れない。

さて本願寺の戦いの去就、伊勢長島と加賀は粉砕されてしまった。
何万という本願寺の信者が殺されてしまった。
それこそ棲さまじい殺戮劇であり、こんなのは未だかつてなかった。
もちろん信長軍の被害も尋常でなない。
それが更に信長に輪をかけた。

ある日の軍議、
「石山の坊主めが…、簡単にはいかんぞ…。誰ぞ考えを言うて見よ!」
「猿めの浅はかは考えは…」
いつも秀吉がトップにシャシャリ出る。
「坊主の後押しをしている毛利の根を断つことが肝要と存じまする。瀬戸内の海路を絶つこと、武器弾薬、食料輸送の根を絶てば、おのずから勝利はお見方に…」
秀吉らしい兵糧作戦である。

「禿はどうじゃ?」
「今、風当たりがきつうございまする。禁裏あたりでは、あれこれ噂していると聞きまする。ここは、しばらく時間をおいて…、帝のご尽力にて、勅命和睦が良かろうと存じまする」
「そんなに、時間は無いぞ…」
「そこでござる 丹羽殿には妙策ありと聞いておりまする」

「なんじゃ、長秀!」
「和睦中に我が軍は、石山包囲の砦を築くのでございまする。特に南と西でございまする」

「勝はどうじゃ?」
「殿! 北は宗徒の残党、朝倉浅井の残党が、あばれ回っておりますゆえ、この抑えは抜かりなく…」

「相分かった そのようにせい! 寝るぞ…」

信長軍は一度決めたら動きは速い。
その速さも、戦国一であったろう。

翌日には秀吉は姫路に、光秀は禁裏に、長秀は大坂四天王寺にいた。

いよいよの時がやって来た。
信長本隊は四天王寺に集結していた。
血気盛んなものもいた。

大坂私部城主「安見直政」は四天王寺付近の愛染堂に陣取っていた。
先鋒志願で、石山向けて撃って出た。
「さあ行くぞ! 今日こそ手柄を立ててな…」
そして信長に認められる。
これが最大の狙いである。
「おう!」 「おう!」
隊も血気盛んであった。

本願寺も出ていた。守備範囲を広くしていた。
本願寺も自軍(自寺)の旗差し物は立てている。
そうしておかないと、戦闘だから、どちらがどちらか見分けはつかない。
本願寺の戦闘員も当然、甲冑を着けてフル装備をしている。

本願寺にも血気盛んな勇者はいた。
私部無量光寺住職「覚心」である。
先頭を切って出ていた。無量光寺と染め抜いた旗は立てている。

直政が撃って出て、最初にまみえたのが、どんな因果か覚心であった。
直政は驚いたと同時に頭に来た。
「裏のくそ坊主めが…、何を血迷うてこんな所に…」
血迷うたのは、直政の方がそれ以上である。
人の寺を潰しに来た方が、罪が重いと思うが…。

直政は戦いを挑んでいった。
覚心も強い。何度も何度も槍を合わせた。

横から来た隊がいた。
直政隊に撃ちかかった。
雑賀隊である。こう着状態打開のため前線を回っている。

ひとたまりもない。勝負にはならない。
直政も足を射ぬかれた。
自陣に逃げ帰ったのであった。
直政はこの時の傷が元で、後日、帰城してから帰らぬ人となってしまった。

少々の小競り合いはあったものの、本願寺軍の勝利で、益々血気盛んとなったのであった。

信長は困り果てた。
「やはり猿の云うように、武器・食糧供給路の封鎖か?」
「九鬼に申し渡せ! 出番じゃとな」
熊野水軍である。
熊野水軍は紀伊半島東部を本拠とする。
太平洋をバックに戦う為、内海のチマチマした戦は、得意ではない。

毛利方・本願寺方の村上水軍と大阪湾で戦ったが、結果は火を見るよりも明らかであった。

更に困り果てた信長、
九鬼に「燃えない船を造れ!」と命じた。

本願寺とは、勅命和睦で休戦中とした。

船ができるまでじっとしている信長ではない。
「雑賀に行くぞ!!」
と、和歌山攻めを下知した。

紀州の雑賀は紀の川河口に本拠があり、現在の和歌山市、海南市を居城域としているが、基本は出向いて戦う派遣軍の性格である。

信長軍がこれを攻めた。
和泉山脈孝子峠を越えて、大軍が和歌山になだれ込んだ。

これも勝負は決まっていた。
自領を護るという考えがない雑賀衆、領袖の鈴木孫市は信長に早々と誓紙を差し出した。
『以後の反抗はせず』という趣旨である。

不確かな約束ではあるが、本願寺の力を少し削ぐには効果があった。

九鬼熊野水軍の鉄船が完成した。7隻が進水した。
紀伊水道から大坂湾木津川河口へと進めた。

本願寺村上水軍は数百隻でこの水路の護りを堅めている。
「なんじゃ、ありゃ?」
と云いながらも、次々、火玉を撃ちこんで行く。
しかし、役には立たない。
逆にこちらに撃ち込まれた火玉は、燃え広がるばかりである。
村上の船は真っ赤に燃えあがった。
大坂の海と空を染めたのであった。

信長はほくそ笑んだ。
「どうじゃ、作戦はうまく行ったろう…。もう直、兵糧も無くなるはずじゃ。皆のもの、刈り取り次第じゃ…」

一方、本願寺、兵糧を絶たれては、雑賀も釘付けにされては、戦う意欲も出ない。
急速に和議に向かうことになった。

『石山の地を信長に明け渡すこと
武装解除すること』
これが趣旨であった。

顕如は紀州へ隠遁した。
法主を息子の教如に譲った。
しかしこの教如、和議には納得せず、唱戦派とともに石山に立て籠った。
困った顕如、これも嫡子の准如を法主として、教如も隠遁させた。
教如が本願寺を出て行く時に、本願寺は燃え上がったという。

蛇足ではあるが、この石山本願寺の地、信長に渡った後、秀吉が大坂城を建てたことは、良くご存じのところである。
尚、この後、本願寺は秀吉の時代に西本願寺として再建された。
また、家康の手により、教如を法主に東本願寺が建立された。
その時から、その勢力が分割されたのである。

「大坂の 海陸集う もののふや
招きたるかや 民の幸せ」

【コメント】
一揆という言葉は、現在では、集団の反乱・暴動と受け取られる場合が多い。
本願寺の事例は、そう誤解される恐れがあるので、敢てこれら用語を避けた。

〔むノ段 完〕