大阪の目抜き通りと云えば御堂筋であろう。
10月14日、神戸に所用があって出かけ、その用が思いの他、早く済んだので、これ幸いにと気になっていた御堂筋の探歩へと向かった。

御堂筋はご存じのように大阪の梅田から難波まで、大阪の中心を貫く広い直線道路である。
流行歌にも数多く歌われている。
欧陽菲菲「雨の御堂筋 」、海原千里・万里「大阪ラプソディー」、坂本スミ子「たそがれの御堂筋」、デューク・エイセス「銀杏並木」(にほんのうたシリーズ)など…、かなり前の歌であるが良く覚えている。

御堂筋にはコマ切れではあるが、数えきれないほど行っている。
今回は街道探歩として、端から端まできっちり歩こうと気合を入れたのである。

出発点は歌に従って梅田とする。
JR大阪駅で降りて、阪神・阪急両デパートに挟まれた広い交差点「阪神前」が出発点である。
兎に角、南へ向かって歩く。
道は広い。
すぐに国道1号線である曽根崎通りとの交差点「梅田新道」に至るが、その手前左に露天神社の入口が見える。
例の曾根崎心中のお初天神である。
行って見たいが、初めからの道草は禁物、今回は寄り道は無しで進むことにする。

梅田新道の陸橋を渡って西へ進む。
右手に北新地盛り場への誘導門がある。
夜ならば…、であるがこれもパスする。

間もなく堂島川に架かる「大江橋」に到達する。
この先の淀屋橋もそうであるが、両方とも国指定の重要文化財である。
大江橋を渡るとそこは中之島、左手は大阪市役所、右手の向かい側は日本銀行大阪支店である。

役所前を通り越し、土佐堀川に架かっている「淀屋橋」を渡り始める。
何やら前方が騒がしい。
淀屋橋を渡った交差点の先に、大きな交通看板が設置され、パトカーも置かれている。
御堂筋の車道の上に、人がいっぱいいる。

知らなかったが、偶然にこの日はイベント「御堂筋Kappo」の日だったのである。
この探歩にとっていいのか悪いのか分からないが、ここまで来てしまったら、踏破する以外にはない。
人ごみの中を歩こう。

賑やかである。
車道の片側にテントを張った屋台店が連続している。
両側のビルの軒先では、演奏会やら山車囃子やら、それぞれイベントが行われている。

以前には御堂筋パレードなるものが行われていたが、費用もかなり掛かったのであろうか?
何年か前に主役は市民、市民が御堂筋を歩くということで、手作りのイベントに改められたようである。

人の流れに沿って歩いて見る。
しかし、反対方向の南から歩いて来る人の方が多いようで、流れに掉さして歩くような形となってしまった。

まず、御堂筋で外してはならないのは大阪瓦斯の「ガスビル」である。
昭和初期の建築で、大阪空襲の被害を免れた登録有形文化財となっている。
終戦直後は進駐軍に接収された経緯を持つビルである。

更に南へ歩く。
テントが並んでいる。
最初は、テニスや綱引きなどのチャレンジコーナー。
その次は大阪各地の市町村の物産を販売するテントが並ぶ。
次は東北応援コーナーで、東北6県が即売会をしているが、テーブルの上は既に完売状態である。
大阪人の東北応援も「なかなかのもの」と思った次第である。

その次は全国各都道府県の屋台が並ぶ。
北海道から東北を抜かして、北から南へ沖縄まであった。
しかしどの店も大人気である。
それぞれ故郷の何か懐かしいものを求めるのであろうか?

御堂筋であるから、その名の起こりである北御堂・南御堂を見ないといけない。
屋台を辿っている間に北御堂は過ぎてしまっている。
さっそくUターンして、北御堂まで戻った。

北御堂は浄土真宗本願寺派(西本願寺)の別院である。
行ってみたが修理中であろうか? 寺門も本堂も白いシートで覆われている。
残念である。
しかし、蓮如上人の像がスクッと建っていた。

本願寺は当初は織田軍の武力に抵抗する術もなかった。
蓮如法主は近江、河内、越前、山科を転々とした。
そして最後に大坂に石山本願寺を建立し、毛利や雑賀の助力を得て抵抗ができたのである。
しかしそれも虚しく破られ、その後蓮如上人は85歳で亡くなった。
苦労ばかりの不遇の人であったように思われるが…。
しかしながら、本願寺がこのように今日も栄えていることに、満足しているのではないだろうか?

また、屋台の店に戻り、順番に眺めて行く。
本町通り、中央大通りの交差点の真ん中を歩いて、次は南御堂に向かう。
南御堂は浄土真宗大谷派(東本願寺)の別院である。

この辺りの御堂筋の道路上が俳人芭蕉の終焉の地であると云われている。
それを偲び、南御堂の庭に芭蕉の最期の句となった歌碑が建てられている。
芭蕉の句碑を見たので、少し芭蕉に触れてみることにする。

旅を友とした芭蕉、大坂へ来た時もまだ旅の途中であった。
1694年であるから丁度元禄の走りの頃、曾根崎心中や忠臣蔵の少しばかり前のころである。

芭蕉は、落柿舎を始め、京都、大津などを廻る旅に出て、その後一旦故郷の伊賀上野に戻ったが、その年の9月になって、今度は上野から大坂への旅に出かけた。
大坂の門人、之道と酒堂(しゃどう)が、仲が悪くなっているので、その仲を取り持つために来たのであった

芭蕉は酒堂の家に先ず入り、その後、之道の家に移っている。
その時芭蕉は10日間ほど、悪寒・頭痛に悩まされたのであった。

薬のおかげか、気分も良くなったので、月末近くには俳席にも出た。
その時の吟は、
『秋深し 隣は何を する人ぞ  芭蕉』
であった。
この後もこれを発句として俳席が行われたが、芭蕉は退席、病床に臥してしまった。

10月になり病状更に悪化、いよいよ差し迫り近隣畿内の門弟達に急が告げられた。
病床にて、気力を振り絞り、
『旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る 芭蕉』
と詠んだ。

芭蕉はいよいよを感じたとき、遺言が口述でしたためられた。
10月12日、多くの弟子達に見守られながら帰らぬ人になってしまった。
この大坂への旅が芭蕉最後の旅になったのである。
このとき芭蕉は51歳であった。

翌日、芭蕉の遺骸は、去来を始め多くの弟子達に伴われ、淀川を遡り、大津の義仲寺に到着、葬儀が営まれた。
その後、遺言通りに源義仲の墓の隣に埋葬されたのであった。

「俳諧の 旅は浪花に 留まれり](筆者)

芭蕉の句碑や終焉の地を後にして御堂筋の車道に戻る。
そろそろ各県の屋台列の終点である。
その続きは、各種団体のコーナーのテント列が並ぶ。

花博記念協会のところでは、マスコットの「花ずきんちゃん」を咲いている花で形作っていた。
そして可愛いユルキャラのぬいぐるみも登場、小っちゃい子供たちが集まっていた。

長堀通りの交差点、新橋まで来た。
この地点で御堂筋Kappoは終了である。
ここからは真面目に歩道の上を歩かなければならない。
この辺りはDCブランドの大きなショップが並んでいる。
関係はないので、どんどんと進んで行く。

DM百貨店の前を通過して道頓堀川に架かる橋を渡る。
道頓堀の通りを横目で見てみるが、大変な人出である。
その中への突入は止めよう。

もう難波である。
千日前の大きな通りと交差して、近鉄難波駅のビルを過ぎる。
右手に老朽化のため今はもう機能していない新歌舞伎座が見える。
新歌舞伎座は上本町への移転も済ませている。
跡地の利用は決まっているはずだが、今だ建物が残っているのは、嬉しくもあり心配でもある。

その後、無事、南海なんば駅TS百貨店に到着して御堂筋の探歩は踏破となった。

大都会の目抜き通り御堂筋、
その大通りの真ん中が歩けたのは、この街道探歩シリーズで初めてのことであった。
大きな記念として残ることは、嬉しいことである。

〔完〕