東大寺の転害門から西に発する平城京一条通りは途中で佐保川とクロスして、歌にも詠まれた、風光明媚な文教ロードである。
その南の三条通りは商業ゾーン、のちの平安京とも良く似ている。

この一条通りを西へ行った突き当りが「法華寺」、その先は平城京内裏、大極殿が再現建築されている。

西暦700年、平城建都のころ、宮殿を建てるとか寺院を建てるとかと云うと、とてつもない費用が要ったたのではないかと心配するが、金はあるところにあったようだ。

聖武天皇の勅令による、総国分寺東大寺建設、
藤原氏の財力による興福寺建設、
蘇我氏の元興寺建設(飛鳥寺の移転)、
もちろん宮殿建設、自宅建設、想像に勝る建設ブームだったに違いない。

藤原不比等の娘の光明子、聖武天皇の妃ではあったが皇后ではなかった。
藤原氏としては何としても光明子を皇后にせんと、反対する皇族の長屋王と争い、謀略の果てに、長屋王を自害に追い込んでしまった。

天下人の妃となった光明皇后、民を守るために、聖武天皇に国分寺や国分尼寺の建設を進言したり、自らは「悲田院」「施薬院」など医療施設を作った。

もちろん国分尼寺建設は光明皇后自らの事業である。
親父・不比等の屋敷を貰い受け、ここに法華寺を建設したのであった。

この法華寺、総国分尼寺として栄えたが、都が平安京に移ってからは次第に衰弱、平家の南都焼き討ちでは、多くの伽藍を焼失するに至り、その後、鎌倉時代になって再建されたが、またも荒廃した。

現在の伽藍は関が原の戦いの1600年の頃、秀頼・淀君の大坂城の金庫で、再建されたものである。

本尊の十一面観音像は光明皇后のお姿を模したものとして、ふくよかなお姿にて国宝にも指定されている。

境内の東庭園には、蓮の花が綺麗に咲いてた。

「千余年 都に咲くよ 蓮の花」

あとは、余談、
哀れなのは暗殺された長屋王である。
長屋王についての伝説がある。
都からの行き帰り、平城京の北から通じている歌姫街道にて妻を想ってか、街道の神社に参拝し歌を詠んだという優しい人であったのに、残念である。
〔ほノ段 完〕