平安神宮道は略して神宮道と呼ばれる。
祇園社八坂神社から北の平安神宮へ向かう道である。
圓山公園、浄土宗総本山知恩院前、天台宗清蓮院門跡前を通り、粟田口を通過し、三条通りを横切って、琵琶湖疏水を渡り、神宮の大鳥居をくぐり、美術館・図書館の前を通り、平安神宮の応天門へと至る。

観光地を少し広げると、清水寺から北へ向かう時、産寧坂(さんねいざか)、二年坂、ねねの道に続く道である。
京都観光をされた方なら、一度ならずも訪れたことがあるのでなかろうか?

短い通りではあるが、この道は京都の長い歴史を繋げているのである。

出発点の八坂神社は、聖徳太子が飛鳥や斑鳩で活躍していたころの創建である。
高句麗からやって来た渡来人が半島の牛頭天王(スサノオの命と同じ)を祀る祇園社を創建し、八坂の姓を賜ったのが京都のこの辺りに町ができる始まりであった。

平安時代、都が京都に移されたが、元々低湿地のため疫病が流行り易い。
疫病退治のために、牛頭天王を祀り御霊会を行って無病息災を祈念したのが、祇園祭の始まりであったと云われている。

以来、徳川政権の末期まで、都として長く機能してきた京都ではあったが、幕末の長州藩の変(蛤御門の変)にて、市内は焼け野原となった上に、天皇が関東へ行幸するとのダブルパンチを受け、京の町は沈んでしまいそうになったのであった。

大火災だけなら、応仁の乱を始め、今までに何度か見舞われて、そのたびに強い意志で、復興してきたのだが…。
都であると云う京都人の自負心が都度復興を支えてきたが、もはや都もいつ帰って来るか分からない。
人々の気持ちが離れ、人も離れて行く危機になっていたのであった。

それでも京都の再興を願う人達は、あれこれと手を尽くした。
万国博覧会の開催に合わせて、祗園の花街では都をどりを催し、活気を付けようとした。
それは大成功をおさめたが、それだけでは都市としての復興までには至らない。

また、平安建都1100年の年の内国勧業博覧会の開催に合わせて、平安京の再生とそれを後世に残す平安神宮建設の計画も持ち上がった。
平安京遷都の天皇・桓武天皇を祀ることの計画である。
当初の計画はかつての大極殿の場所への建設計画が持ち上がったが、市中であり用地買収が困難を極めたため、現在の岡崎公園に建てる計画に変更され進められた。

しかし、これは市民マインドの構築のためには大いなる効果は期待できるが、経済復興・都市復興にはまだほど遠いものではあった。

それでは、何なのか?
都市の復興にはライフライン・インフラの整備が必要不可欠であることは分かっていたが、そこまで手を付ける力は無かったのであった。

北垣国道(くにみち)という男、幕末の北越戦争などに従軍していた男であるが、高知県令、徳島県令を歴任した後、明治14年京都府知事に就任したのが、事の始まりであった。

北垣は就任早々から知事として京都の水道や電気などインフラ整備を行い、殖産興業するのが責務と考えていた。

それには、技術者の力がいる。暇があれば、府庁内の技術吏員の溜まる部屋に行き、技術者連中と議論した。
技術者と云う人種は、知事みたいに偉い人にも普通に話す。
いつも、議論伯仲して、その中から考えをまとめていたのであった。

ある日、技術者がこんなことを言った。
「知事、面白い人間がいます。この間、ここへきて京都の水利のことを一生懸命聞いて帰った学生がいます」
別の技術者、
「琵琶湖から水が引けるのかどうか?真剣に調べてるって言ってました」
「何か卒業論文を書いてるって…。」
「書けたら送るから見て下さい。とも言ってました」
「京都の学生か?」
と知事。
「いえ、東京の工部大学校と言ってましたけど…」

「琵琶湖から水を引くのか? 考えたことは無かったな…」
知事室へ帰ってから、考えて見た。
「琵琶湖と京都には、どれだけの高低差があるのか?」
地勢を担当している係を呼んで聞いてみた。
「30米程度は、優にありまして…」
との、答え。
それを聞いて、知事、また悩みだした。

「しかし、川が作れる様な所は無いな…。まあ無理か…」
と北垣知事は一旦は諦めた。

その年の末になって、卒業論文が送られてきた。
技術者宛てと知事宛てであった。
技術者達は知事が興味を持っているとわざわざ知らせたため、知事にも送られて来たのであった。

御丁寧に手紙まで付いていた。
『北垣知事様
・・・
拙文ではありますが、是非とも御一読賜りたく、お願い申し上げます。
御下問等ございますれば、何なりとお申し越し下さい。
御都合のよろしい時に、御説明に上がりたく存じます』

こうなれば、企画提案書である。
卒業論文のタイトルは、『琵琶湖疏水工事編』、『隧道建築編』であった。
名は、田邉朔郎と書いてあった。

年末年始の休暇に知事は隅々まで眺めてみた。

最初の方の論文は単なる琵琶湖疏水必要論であった。
知事の思ってる通りの事を滔々と述べている。政策論文であった。
知事は失望した。
「これじゃ何ともならんな~」

2冊目に取りかかった。
トンネルの掘削法が書かれていた。当時はトンネル掘削工法が未開であり、トンネルを掘るなんて、とんでもないと云う時代であった。

しかし、まず縦坑を掘り、それから横へ広げるという安全確実なように見える方法が、事細かに書かれていた。
詳細は省くが、できそうな気がしてきた。
いや出来ると確信した。

この学生に興味を持った。
年が明けて役所の技術吏員に言った。
「適当に質問を並べ、返信しておいてくれ。知事も興味を持ったと最後に添えてな…。こちらへ来るなら、直接会って見るからな…」

それから、事務官を呼んだ。
「大津の知事に手紙を書きたい。文案を作ってくれ! 琵琶湖の水を使いたいとな…。それだけではダメだぞ…。琵琶湖の治水に、我が京都南部の巨椋池(おぐらいけ)がどれほど役に立って来たかも入れろ!」

数日して滋賀知事から返事が来た。
「どうぞ、ご自由にお使い下さい」
と、嬉しい返事であった。

一月の中ごろ、例の学生がやって来た。
「是非、やりたい」と云う夢と志だけはしっかりしている。
工部大学校の学生だから技術の心得はあると思い、それは聞かなかった。

知事はこの学生に設計させて見たいと思った。
学生が帰ってから、人事部に技術吏員としての採用通知を出すように言った。

4月になって田邉が赴任して来た。弱冠21歳である。
「田邉君、良く来てくれたな! 礼を言う。しかし、一分一秒も惜しい。早速仕事を始めてくれ。身分は知事付きの技術吏員としておく。仕事場は、この横の部屋だ」

知事は更に続けた。
「基本設計半年、実施設計1年で、先ず上げてみてくれ。測量・地質の技術者が要るだろう…。外部業者を使ってくれ。役所内部の者では仕事がやりにくいだろう? 早速、明日からかかってくれ」

訓示・指示を受け、もうその日から仕事にかかったのであった。
測量や地質の検査をしながらの設計であるから時間がかかる。
基本設計は、田邉の頭の中にあったので、2カ月で書き上げた。
実施設計はそうは行かない。
琵琶湖を出てすぐの長等山トンネルの長さが、2.5km、その他第2、第3トンネルが計1km。
これの設計に戸惑ったが、何とか設計は出来た。
実施設計に1年半を要したのであった。

ここまで来たら、田邉は少し小休止できた。
設計書を知事から直接工務吏員に渡して、工事仕様書を作った。
これに半年。
同時並行して、明治政府や滋賀県、流域の大阪府にも許可を求め、紆余曲折はあったが、全てOKとなった。

後は資金である。年間予算の10倍程度かかることになっていた。
これは知事の仕事である。
政府補助金や府債券発行はもちろんのこと、増税までも行ったと云う。

基本設計から2年後にやっと工事にかかれることになった。
工事は5年近くかかったが、当初の設計通り、疏水は完成した。

田邉は休憩の間、アメリカの現状視察に行った。
当初は岡崎に水車を作り、それを動力として製造所を作るつもりであったが、京都の実情に合わないと云うことが分かった。
水車ではなく、水力発電所の設置に切り替えた。
その作戦変更が、のちのちに効果を発揮したのである。

蹴上と鴨川への疏水放水口に発電所を作った。
蹴上発電所と夷川発電所である。
もちろん商業用としては国内初、当時としては画期的なものであった。
アメリカのウエスティングハウス社から発電機を導入し発電を始めた。
60Hzの発電機であった。

また、この電力を利用して電車を走らせた。日本初の市電である。

本来の狙いである上水道は当初は京都の10分の1のまかないが出来たと云う。
その後もう一本、全てトンネルの第2疏水の掘削や、それ以外の整備を通じて、上水道のカバー率は飛躍的に向上したと云う。

また疏水本流の他に、北上する枝線水路を作った。
大文字山の山麓に沿って、南禅寺、若王子、吉田山の東を経て、高野、下鴨、堀川へと南から北へ、その後西へ流れ沿線各地へ用水の供給したのであった。
山麓の水路は、その後、哲学の道として観光整備され、桜や紅葉で府民や観光客の目を楽しませることにもなったのである。

この疏水の竣工式は、明治23年4月9日、夷川船溜で行われた。
前日の竣工夜会では,市内各戸に日の丸と提灯が揚げられ、船溜南側に祇園祭りの月鉾、鶏鉾、天神山、郭巨山が並び、大文字も点火され、付近は人出で埋まり、盆と正月が一緒にきたほどの賑やかさと云われ、市民の喜びがいかに大きかったかが分かる。

さて、北垣国道知事と田邉朔郎その後はどうなったのであろうか?

2人3脚で、琵琶湖疏水を完成させた後、北垣は田邉の岳父となった。
その2年後、北垣は北海道庁長官となった時、鉄道部長として田邉を連れて行った。
北海道の鉄道建設のためである。
田邉は、有名な根室本線、狩勝峠などの工事に足跡を残した。

その後、北垣は維新の功で男爵となり貴族院議員へ、田邉は帝国大学教授となり、後進の指導にあたったのであった。

尚、北垣と田邉の功績を讃え、北垣像が竣工式が行われたその場所に、今も建っている。
田邉はと云うと、その場所から西の疏水が鴨川へ流れ込む川端通りに、放水口をまたぎ田辺橋と記念されている。

岡崎公園の水路敷設に合わせて、公園内の区画整理と内国勧業博覧会に向けて、平安京の大極殿や応天門平の建設も始まった。8分の5の大きさだそうであるが、緑瓦と朱塗りの建築、それは見事なものであった。

博覧会終了後は、桓武天皇を祀る平安神宮として、現在も京都の歴史をもの語っているのである。
もちろんのこと、平安神宮の神苑には、この疏水の水を引いている。

琵琶湖疏水と神宮の道、平安神宮の大鳥居の下で、交差している。
神宮道は、1100年の時を繋いだのであった。

京の人達は災害に会うごと、自らの手で再建してきた歴史がある。
明治維新の災難も、見事乗り越えたのであった。

余談ではあるが、京の人はこう言う…。
「天皇はんは、今、東京に行かはってます。そのうち戻ってきはりますやろ…」

江戸城は仮の御所と云う考えであろうか…。
しかし、そのプライドが都として生き続けている力であろう。

「桜木と 水面かがやく 琵琶の水
京の都の 神水なれり」
〔完〕