伏見街道は伏水(ふしみ)街道とも呼ばれる。

秀吉が天下人になった時、京の町を御土居という惣構、土塁で取り囲んだことは良く知られている。
この御土居の出入り口は正確には分からないが、七口あったとされている。

現在の五条大橋の西詰あたりに設けられていたのは七口の一つ伏見口である。
この伏見口から、秀吉が住んだ伏見の町中に至る道を秀吉自らが作り、伏見街道と呼ばれていた。

この伏見街道は、京の町の東の山裾を辿っていく道で、奈良ならぬ、京の「山の辺の道」というのがふさわしい。

この伏見街道を順に南下、辿って見ることにする。

スタートは五条通りにある。
鴨川に掛かる五条大橋から東の3本目の道が入口である。
秀吉の作った寺町通りの終点から鴨川を東に渡ったところである。
何も表示がないのでわかりにくい。
しかしこの道の両側は町名の付け方がユニークであるので、間違った道に入れば直ぐに分かるようになっている。

入口のところが本町1丁目である。
そのまま本町2丁目、本町3丁目と続いて、最後は本町22丁目まである。
22丁目はどのあたりかというと、ずっと南の伏見稲荷神社の手前である。
延々3kmにも及ぶ本町である。
22丁目までが京都市東山区、その先が伏見区となっている。

南下を始める。
先ず正面通りと交差する。
正面通りとは、何の正面かというと秀吉が創建した西本願寺と方広寺の正面を
結ぶ通りと云う名付けである。

しかし、現在はその間に家康により建てられた東本願寺があり、方広寺も縮小され、その機能はすでに果たしていない。
正面通りの東の突き当たりの方広寺の大仏殿跡に建てられているのは豊国(とよくに)神社である。
この神社の正面に至る通りと云うのが今は正しい。
方広寺は「国家安康 君臣豊楽」の鐘の銘文で大坂の陣が勃発するきっかけになったところである。
また豊国神社の国宝唐門は伏見城の遺構とされる絢爛豪華なものである。

正面通りを過ぎて南へ進む。
道の両側は、住居、商店が並ぶ京都らしい町並である。
またこの通りは北向きの一方通行であるので、後ろから車が来ることはなく歩き易い。

程なく七条通りと交差する。
東へ行けば三十三間堂、国立博物館、智積院、西に行けば東本願寺、京都駅付近に至るところである。

七条通りを渡って、南下する。
先ほどと同じような風景が続くが、暫く行くと道は線路に突き当たった。

JRの東海道本線、東海道新幹線の線路である。
この辺りの大抵の道は、線路を潜るようになっているのであるが、伏見街道は
そうなってはいない。歩道橋で線路を跨ぐようになっている。
古い道であることを示しているのである。

歩道橋を渡って更に南下を続ける。
真言宗の泉涌寺に達する泉涌寺道と交差する。泉涌寺は清少納言が住まいしたところでも良く知られている。
付近には、納言が仕えた不運の中宮、定子の陵墓もある。

少し行くと、宝樹寺という西山浄土宗の寺が右手にある。
この辺りには、かつて伏水街道第一橋と呼ばれる橋が架かっていた。
今は川は暗渠となっている。
この寺は橋詰堂とも呼ばれていたという所以である。

この寺の薬師如来座像は「子そだて常盤薬師」と呼ばれている。
源氏の義朝の妻、常盤御前が今若、乙若、牛若の3児の成長を祈願した像と伝えられている。
境内には「常盤御前雪除けの松」と呼ばれる残株がある。
この松には、常盤御前が大和へ逃れる際に、この地の老松の下で雪を避けたとの云い伝えもある。

暫く南下するとJR及び京阪電車の東福寺の駅前に至る。
駅前には「東福寺御用達」と書いた寿司屋さんが並んでいる。
お寺さんと魚料理は何か合わない感じがするが、寿司屋さんができたのは、おそらくは明治以降のことであろうと思われる。

直ぐに九条通りのガードを潜る。
この辺りに、第二橋があったらしいが、これも暗渠となっている。

東福寺の門前までやってきた。
この辺りは本町15丁目である。
少し寄り道をしてみる。

東福寺の西北の門を入ってすぐに現れるのが「退耕庵」、毛利の外交僧でもあった東福寺の法主、安国寺恵瓊が建てた塔頭である。
塔頭にしては、かなり大きい。
この塔頭の中で、石田三成や小西行長らと関ヶ原の謀議がなされたと云われている。

東福寺には有名な所がある。
通天橋である。
秋の紅葉の時期には沢山の人が見物行列を作るところである。
通天橋の蒼紅葉を垣間見て、東福寺を後にした。

程なく第三橋を渡る。現役の橋である。
「伏水街道 第三橋」と彫られている。当時の、そのままであろう…。

橋には「伏水」と書かれている。
当時はこのように書いたのであろう。
伏水とは、桃山から湧き出る伏流水である御香水から名付けられている。
酒造りの仕込み水として、いまも美味しい酒が造られている。

南下を続ける。
この辺りから、虫籠窓を配した旧商家らしきが多くなる。
いかにも京都と云う家並が続く。

本町22丁目で東山区は終了、道は伏見区へと入った。
「伏見区深草稲荷○○…」と云う町名が現れる。
左手に伏見稲荷大社の森が近づいてくる。
京阪電車の伏見稲荷駅から来る御幸道という参道と交差する。
左手に鳥居が見える。
商店も沢山あり、カラフル、賑やかである。

伏見稲荷の賑やかな参道を通り過ぎて、さらに南へ向かう。
直ぐに左側に大きな鳥居がある。
その向こうに伏見稲荷大社の華麗な楼門が見えている。
新参道といわれる表参道である。

伏見稲荷はあまりにも有名である。
鎮座1300年と云われるから、創建は奈良時代の初めごろであろう。
渡来して財を成した日本一の富豪、秦氏の創建と云われている。

余談であるが秦氏の財力は神社の一つや二つのようなちゃちなものではなかった。
平安京の造営にも、大きな力を示したと云われている。

この新参道の斜め向かいにJR奈良線の稲荷駅がある。
この稲荷駅には東海道線開業当時のランプ小屋が残されている。
煉瓦と瓦屋根の建物である。
なぜ稲荷に東海道線が走ってたのか不思議に思われようが、答は簡単である。

明治10年のころであるが、そのころにはトンネル掘削技術が無かった。
京都から大津方面への鉄道は、東山を迂回し伏見から山科に抜けたのである。
このような鉄道の歴史も味わうことができる街道でもある。

JR奈良線に沿って道は進む。
少し行くとJRの線路は左にカーブする。
伏見街道は踏切りとなりそれを渡り、まっすぐと進んで行く。

この辺りからは再び虫籠窓の旧町屋が所々に見られるようになる。
町名は「伏見区深草直違橋11丁目」である。
ここから南は、丁目が先ほどの本町とは逆に若くなり、直違橋1丁目まで行くことになる。
「直違橋」は難読地名である。「すじかいばし」と読む。
なぜ直違橋なのか?1丁目まで行く間に何か分かるのではないかと期待を込める。

直違橋6丁目の辺りの左手に、とても綺麗な学校がある。
聖母女学院と云う総合学園である。
日本の学校で1、2を争う綺麗さであろう。

この建物は旧陸軍第16師団の本館であったと云う。
爆撃にあっていないので、そのまま残っているのである。
校庭に入ってみたい気がするが、女子学園であるので、無茶なことはやめて先に進もう…。

この辺りも旧町屋が多いところである。
住宅、商店が並ぶ。
程なく名神高速道路の下を潜る。
その直ぐ南で、山科勧修寺に越える自動車道と交差する。

更に南下する。
第四橋を渡る。これも現役の橋である。
この橋が直違橋(すじかいはし)と云われている。
かつては下を流れる七瀬川に対して斜めに架かっていたらしい。
ここは直違橋1丁目、この橋が長い町名の起源であった。

更に南に進む。
左手に藤森神社の鳥居が現れる。
勝ち運の神様である。
馬の字を裏返したお札がお守りになるらしい。
京都では、競馬ファンがお参りする神社として、よく知られている。
創建は古く、神功皇后が203年に三韓征伐の戦勝記念に、素戔嗚尊を祀ったと云われている。
その後、東宮に舎人親王、西宮に早良親王も祀られている。

お参りして、ついでに東隣にある京都教育大学の広いキャンパスも拝見した。

少し南下して、伏見街道は国道24号線に吸収される形となる。
街道は一旦ここで終了であるが、伏見の町内を通り抜けるには、ここで右折をして暫く歩き、左折して京町筋を南下することになる。

この終点の辺りの右側には琵琶湖疏水の終着点もある。
満々とした水流の疎水が到着し、プールの中に入っていく。
ここは関西電力管理の発電所となっている。

国道筋を南に進むと、右手の伏見酒の名水で有名な御香宮と、更にその右には伏見の町が広がっている。
そして左手の山には伏見城の天守(模擬天守)がある。

伏見の町中には、数多くの歴史があるが、それはまた次の機会にしたい。

伏見街道、結構な長い道であった。
さすがに過去からの歴史が豊富な道である。
今も、町屋などを残す努力がなされているのは嬉しい限りであった。

〔完〕