東高野街道は平安時代から開かれ、弘法大師が開山した紀州の高野山に参詣する街道である。
京の都の中央通り朱雀大路を出て、それに繋がる鳥羽街道を南下し、京都三川(木津川、鴨川、桂川)が合流する地点で、大坂へ向かう京街道と分岐し、大阪・奈良の境目にある生駒山系の西麓を直線的に南下する高野山へは最短の道である。

〇〇高野街道と称する道はいくつかある。
大阪の堺の大小路で紀州街道と別れて南東進する「西高野街道」、東と西高野街道の間にある、中高野街道、下高野街道などある。
そして全ての街道は大阪南部の河内長野で合流し、高野街道として一本かされ、高野山に向かうのである。

東高野街道を辿ってみる。
先ほどの京街道との分岐点は八幡の男山の麓、この山には石清水八幡宮が鎮座している。

この八幡宮、平安建都の後、清和天皇の命により建立され、京都の南西の裏鬼門を守護する神とされた。
その後は清和源氏の氏神とされ、源氏を始祖とする征夷大将軍の武家の氏神として信仰が篤いものであった。
勿論、徳川将軍も参拝したという記録が残っている。
また、三川の合流点にあることから、行きかう舟を守る水運要路の神としても信仰された。

この石清水八幡宮には、2つの話がある。

一つは兼好法師の「徒然草第52段」、
『仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、
ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩より詣でけり。
極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。

さて、かたへの人にあひて、
「年比思ひつること、果し侍りぬ。
聞きしにも過ぎて尊くこそ おはしけれ。
そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、
何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ
本意なれと思ひて、山までは見ず」
とぞ言ひける。

少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。』

かつては、エッチラ、オッチラ、小一時間かけて山登り参拝したが、今は京阪電車がケーブルカーを敷設していて、楽に参拝することもできる。
車道も完備して、車での参拝も可能である。

2つ目の話は、あの発明王エジソンのこと。
石清水の境内には「エジソン記念碑」と云うのがある。
エジソンは白熱電球の発明にあたり、点灯部のフィラメントとしてここ石清水さんの竹を使ったと云われている。
こちらは、技術開発の先達である。

石清水にまつわる失敗例と成功例、いずれにしても先達はあらま欲しきことなり…。

また、この石清水の対岸には、大山崎・天王山があり、合戦の場所でもあった。

石清水を後に、街道を南下する。
八幡市内の旧道である。

右手に紅葉で有名な善法律寺、左手に松花堂(しょうかどう)庭園を過ぎる。
松花堂はもともと石清水の境内の宿坊の草庵であった。
当時石清水八幡宮の社僧であった松花堂昭乗が構えたものである。
現在でも山中のその場所には石柱が建てられている。

当時は男山には「男山四十八坊」と呼ばれた宿坊があった。
明治の神仏分離でそれらの宿坊はすべて撤去されたが、松花堂は神社から離れたこの場所に移築され、「松花堂庭園・美術館」という文化施設で現在も観光名所である。

松花堂と云えば、松花堂弁当が良く知られている。
これは昭和の時代に大阪の料亭「KT」が考案したもので、昭乗が造った器に模した陶器を木箱の中に並べ、それに料理を盛ると云うものである。
いわゆる本膳ではなく、茶道の懐石料理を基本にした弁当である。

引き続き狭い街道を辿って行く。
間もなく「洞が峠」に至る。
なだらかな山越えである。
この山を超えると、大阪の枚方市、北河内地区に入る。

ここは「洞が峠を決め込む」ということわざの発祥地である。
明智光秀が大山崎で秀吉軍を迎え撃つ時に、大和の筒井順慶に出陣要請をした。
順慶はこの洞が峠まで出てきて、戦況を見極め有利な方に付いたと云うことから、日和見主義の言い換えのように使われている。

しかし洞が峠はそんなに高い峠では無い。
さらに山崎との間に、石清水の男山が邪魔していて、見通しは悪い。
この峠で戦況を見ていたと云うのは、本当であるとは思えない。
恐らくは出陣していなく、最初から秀吉側と通じていたのではなかろうか?

さらに南へ進む。
暫くは国道1号線に沿って進む。
大阪府立の山田池公園の所、出屋敷交差点から府道「樟葉‐寝屋川線」に沿って進んでいく。
自働車の交通量は多い。
途中右手に枚方市の体育館、陸上競技場がある。
これも過ぎて工場街を通過して、星ヶ丘あたりを過ぎ、途中京阪電車交野線と天の川を越える。
その場所から生駒山の麓、星田と云うところに向かう。
星、星、天の川と重なる。
この辺りは七夕伝説がある場所でる。
近くには機物(はたもの)神社もあり、盛大に七夕まつりが行われるところである。

あの織田信長はこの神社に特段の興味があったようで、神域を定め、神官の席順を籤で決めるように下知したと云われている。
余談であるが、この信長の本能寺事件の直後、家康が堺から伊賀越えで三河岡崎に急ぎ帰った時の通り道である。

この辺りからは、生駒山の西麓に沿って南下することになる。
打上、忍ケ丘を通過し、四条畷地区に至る。
四条畷には、楠木正成の子、正行(まさつら)を祀った四条畷神社、正行の墓所、それに配下の和田賢秀(けんしゅう)の墓所が街道を挟んでいる。

このあたりは南北朝時代の終盤に楠木正行が最後の戦いをした場所である。
少し紹介する。

南朝の後村上天皇を守護する正行軍、吉野を発ち、この四条畷の戦場で6万とも8万とも云われる足利尊氏軍の本軍高師直隊と激突した。
正行軍は僅か3千であるが、武勇の兵ばかりで戦いにおいてはそれほどの遜色はない。
死ぬ覚悟の正行軍、怖いものなしで真直ぐに大将の師直を目指して進んだ。

戦いは早朝から始まり、既に夕方になっていた。
正行軍全軍と云っても、もうそのころには50程度の人数しか残っていない。
馬も失い、全員徒歩である。
それでも、師直の本陣まで半町のところまで肉薄していた。

正行軍は、朝から鎧を脱いで冷やす暇も無く、ずっと着っぱなし、体温で暖められた鎧には多くの隙間が生じてしまっていた。
そこに敵軍から放たれた矢が、その間隙を貫通し、彼らの身体深く突き刺さって行ったのであった。

最初に、正時が眉間と喉を射られた。
もはや、その矢を抜く気力さえも残ってはいなかった。

そして、正行が左右の膝、右の頬、左の目尻を深く射られた。
霜に伏した冬野の草木のように、矢は彼の身体に折れかかっているが、ついに正行も動けなくなってしまったのであった。

もはやここまでと見た正行、
「もはやこれまで…、皆の者よくやってくれた。礼を申すぞ…」
正行と正時は、互いに刺し違えて、北枕に伏した。
他の者もそれぞれに、折り重なって倒れた。

一方、知らない間に、和田賢秀は一人になっていた。
何としてでも、師直と刺し違えたいと思っていた。
しかし、湯浅本宮太郎左衛門という河内の土着の武士に背後を突かれた。
首を掻き切られる時、カッと目を見開き睨見つけたと云う。
その睨みが湯浅を精神錯乱状態にし、7日後に悶えながら死に至らしめたと云う。

四条畷を後に、南下を続ける。
大東市に入る。
左手に野崎観音がある。
「の」野崎街道で歩いた道である。
更に南下する。

東大阪市に入る。
枚岡(ひらおか)神社の門前に至る。
ここは「い」伊勢本街道と交差する。
左手に生駒山に登って行けば、奈良を通過して伊勢神宮まで至る道である。

瓢箪山を通過し、高安に至る。
ここからは生駒連山の信貴山に登るケーブルカーが通じている。
更に南下する。

瑠璃光寺の門前の道に至る。
拙作「愛すべき戦国武将たち 松永久秀」で触れたところである。

信貴山城に立てこもった松永久秀の最期の段である。
天正5年10月5日、織田信忠を大将とする織田軍4万が戦闘を起した。
織田軍主力には、光秀、秀吉、細川幽斎など、有力武将が多数いた。

もちろん、先鋒は筒井順慶であることは、云うまでも無い。
悪賢い順慶は信貴山城内に元部下の鉄砲隊を内応者として送り込んでいた。

松永の守備隊は、それでも八千、先ず信貴山の麓から上まで、立てこもることが出来る施設を焼いた。
河内柏原からのの登山口にあった「瑠璃光寺」、七堂伽藍の大寺院であったが、このとき最初に炎上した。
大和川からの登山口である「朝護孫子寺」のあの毘沙門堂も炎上した。

信貴山城は難攻不落の城であり、山道も険しく大軍が一時に押し寄せることは出来ない。  少数ずつで、攻め登るしか手は無い。
だから守備軍が少数でも十分戦えた。
戦線は膠着して動かない日々が続いた。

消耗戦になるかと思われたころ、城内で火の手が上がった。
筒井の隠し玉である。
「不覚だった」
とは一瞬思ったが、仕方が無い。

城内は混乱した。
消火は難しい。
燃えるに任せるということは、負けるに任せるということである。

これまでと見た松永久秀・久通親子、自爆自害した。
愛用の名器『平蜘蛛茶釜』を被って自害したと云われる。
あっけない、そして久秀らしい最後であった。

このような惨劇が、この山頂で行われた。

南下を続ける。
JR柏原駅に至る。
すぐに大和川を超える。
この地点には、南から石川が流れ込んできている。

古代の天皇陵群の間を歩く。
羽曳野市の古市古墳群である。
古墳群の中ほどで、竹内(たけのうち)街道と交差する。
この街道も、「た」のところで触れた。
古代の国道一号線である。遣隋使が通った道である。

更に南下する。
富田林を通過する。
富田林には寺内町と云う本願寺の興正寺証秀上人が、ここ富田林の荒地を購入して、興正寺別院の御堂を建立し、街の開発を行った所である。
江戸時代には幕府の直轄地となり、この寺内町は商業地として大きく発展した。

このころ周辺では米作のほかに、綿や菜種の栽培が盛んとなり、これら農作物を扱う商人が成立した。
そして東高野街道や石川を使って物流を行ったと云われる。
また江戸元禄期には、豊富な米と恵まれた水によって酒造業が興隆し、当時の河内全体の2割の酒をここで造ったと云われている。
現在でも、往時の旧町屋が残っていて、当時を偲ぶことができる。

富田林を過ぎて河内長野に至る。
ここで、西高野街道と合体、高野街道と名を変える。
東高野街道はここで終点となる。
そして高野街道は高野山に向かうのである。

〔完〕