1
乃木希典(のぎまれすけ)は日清、日露の戦争を戦った明治時代の軍人である。
のち学習院院長も務め、昭和天皇を始め皇室の子弟教育にも携わった人である。
先祖を遡ると、あの宇治川先陣の佐々木高綱で、いろは巡礼の一つ前に、宇治川先陣に触れたばかり…。
偶然と云えば偶然である。
佐々木高綱は平安末期から鎌倉にかけて源頼朝配下の武将であり、係流は宇多源氏である。
そういえば乃木希典は高綱と似て、武勇は抜きんでていた訳ではないが、機を見ること敏、立ち回りが上手で立派な大将であった。
そんなところが、血がつながっているというのだろうか?
乃木希典は長州藩の士族の生まれ、生まれは長州藩江戸屋敷、その後、父上が安政の大獄にからみ蟄居を申しつけられ、一家で長州長府に帰り、足軽小屋程度の住まいで、禄も半分になり、一家は苦しい生活をした。
親戚に有名なあの吉田松陰がいる。
吉田松陰は、あらぬ罪で捕捉され殺されてしまった。
これが幼い希典に大きな衝撃と影響を与えた。
希典は吉田松陰の師匠、玉木文之進に萩まで行き教えを請うたそうである。
凄いスパルタ教育で、見かねた希典の母は「もうお死に」と云ったそうである。
希典はそのころは哲学者を目指していた。
家の手伝いをしながら、片時も本を離さず勉強に余念がなかったのである。
もともと、武家だから軍人になってもおかしくはないのではあるが、同僚が次々に軍人に登用されて江戸に行く中、希典には声はかからなかった。
優しい、人思いの性格だったからであろうか?
ある日、希典がいとこの御堀耕助を見舞った時、丁度、薩摩藩の黒田清隆も来ていて、御堀の推薦で陸軍に仕官が決まり、いきなり陸軍少佐で東京に行くことになったのである。
この時希典は22歳であった。
この若者が28歳の時、西郷隆盛との戦い、西南の役に出陣する。
もちろん指揮官としてである。
熊本鎮台、熊本城で戦うが、攻められて軍旗を敵に奪われてしまう。
戦争経験のない若者がベテランと戦うなんて到底無理なことだったのであるが…。
この軍旗を奪われたことが負い目になって、彼、希典の一生を左右することになる。
申し訳ないということで、この時から彼は何時死んでも良いごとく、我武者羅に戦闘の中へ突っ込んで行くことになったのである。
2
ここからは、日清・日露の戦争に触れていく。
明治時代の日本は、清の中国とロシアから攻められて、植民地化されるのを最も恐れていた。
世界の列強帝国主義は日本をも狙っていたんだからである。
そのカギは朝鮮半島である。
朝鮮半島が清国なりロシアの属国となった場合、日本まで攻めてくるのは必至であった。
従って、朝鮮半島を緩衝地帯にして、日本を防衛するのが良しとされていた。
日清、日露の戦争は、朝鮮半島をめぐっての戦いであった。
乃木は日清戦争では、陸軍少将、歩兵第1旅団長として出征した。
旅順包囲軍に加わり、旅順要塞を一日で陥落させてしまった。
このことが、乃木の評価を高めた。
このことが日露の戦いに大きく影響するのである。
断っておくが、筆者は戦争賛成論者ではない。
乃木希典の周りで起こったことを見ながら、乃木希典という人物に出来る限り迫って行きたいだけである。
日露戦争は日清戦争より、もっと複雑である。
日清戦争の三国干渉の結果、ロシアは遼東半島を中国から借りることになった。
ここの旅順にロシアの軍港を築き、黄海と日本海の制海権を得ようとした。
それは日本を始め太平洋沿岸の国に、干渉するためであった。
干渉と云ったら格好は良いが、要は占領するためであった。
そんなことは見え見えであった。
日本の大本営では日夜議論になった。
大本営とは天皇の御前会議、最高の意思決定機関である。
「ロシアの旅順の艦隊をどうにかできんか?」
と天皇、
「ヨーロッパから、バルチック艦隊がこちらに向かうという報告がある。旅順に入られたら、我が国は露国に占領されること必定…」
「そんなことは、許せるもんか」
「旅順艦隊粉砕作戦だな 戦略はないか?」
「そのためには、旅順要塞の攻略を…」
暫くは沈黙が続いた。
「何をためらっているか 乃木に任せたらよかろう? 支那の時、旅順を一日で落とした希典にやらせるがよかろう…」
と天皇、これで決定した。
あまり軍隊が好きではない希典、この時も休職中であったが、突如呼び出された。
「今度も旅順だぞ…。大本営の決定だ…。直ぐに出発だな…」
大本営は事務官ごときでも、偉そうに云う。
満州軍第3軍司令(大将)というのが役割だった。
「また旅順か、今度はロシア軍だな、清のへなちょこ見たいには行かないぞ…」
と、希典は自分に言い聞かせた。
3
希典はとりあえず動ける部隊だけを率いて、旅順近郊までやって来た。
急造であるため、まだ十分な人数ではない。
あせっている大本営の云うままにやって来たのであった。
ロシア軍の旅順要塞なるものを見に出かけた。
あまり近寄ることは危険、双眼鏡を使って眺めた。
思っていた通り、コンクリートそれもかなりぶ厚い様子である。
おまけに窓には機関銃の台座が見えた。
最新鋭の要塞である。
「これは、一気にはいかないぞ。大砲が命中しても壊れない。それに機関銃も嫌だな…」
周りにいくつもある山を見上げながら、ととりあえずの作戦を描いた。
「周りから落としていくのが良かろう。急がば回れだ」
と、参謀長の伊地知と話しながら本部に帰った。
大本営から作戦指示が満州軍本部経由で来ていた。
『即刻、要塞攻撃をされたし。西側弱し。それを攻撃すべし。時間余裕あまり無し』
見てきたようなことを言う。
「何を根拠に…、現場も知らない癖に…」
と乃木はつぶやいたが、勅命であるゆえ、逆らうことは出来ない。
軍備を整えて要塞本体に向かった。
未だに、軍の四分の一にあたる第7師団が到着していないが、止むを得ない。
この時代の戦法は、大砲を敵陣地に撃ち込みながら、銃剣で武装した歩兵を接近させ、一挙になだれ込むという方法であった。
大砲の命中率と破壊力がポイントになる。
旅順要塞攻めは山登りになる。
山の頂上に向けて大砲を撃つのであるが、命中しているかどうか分からない。
こんな場合は、近くの山を占領して、着弾点を観測しながら、距離を合わせていくのであるが、今回はその準備も不十分である。
とにかく定法通り、大砲を撃てるだけ撃って、歩兵を接近させた。
大砲の煙幕が晴れて、突入ということになるのだが、晴れた途端、敵の機銃掃射に見舞われた。
突入も出来ないまま、バッタバッタと撃たれて行く。
それでも小隊ごとに突入を試みるが、倒されるのみであった。
「退却!」「退却!」
引きながらも撃たれる
無事退却できた兵士の数、負傷者を別にすると、半分程度になってしまっていた。
「陛下の大切な兵を失ってしまった」
希典は落ち込んだ。
3
一回目の攻撃が失敗したことで、大本営は性能アップした大砲28サンチ砲を配備することにして、その旨連絡があった。
28サンチ砲の到着と同時に、要塞直接攻撃を命令された。
『今度の攻撃も、直接要塞を攻め落とすこと あまり時間なし』
2回目の総攻撃は周りの堡塁も落としながら、仕掛けた。
機銃への対抗として、スコップ携帯で塹壕を掘った。
旅順港を見渡せる山も確保できたので、そこからロシア艦船にも打撃を与えた。
しかし要塞を落とすには至らなかったが、損害は大幅に減少した。
いよいよロシアのバルチック艦隊が出航したとの情報が伝わってきた。
たどり着くまでには旅順要塞を落としていなければ、ことである。
大本営から命令が来た。
『いきなりの要塞攻めは得策でなし。203高地から攻めよ! バルチック艦隊接近中』
「いまさら何だ?」
と乃木は思ったが、元々考えていたことであった。
余談ではあるが、203高地のネーミングは、標高203mの山の名付けである。
京都で言うと、東山の山頂ぐらいの高さである。
今度の攻撃は
『要塞を直接狙うと見せつつ、203高地に主力をおいて、ロシア軍を疲れさす』
というものであった。
要塞から203高地まではかなり距離がある。
『新たに到着した第7師団と満州軍の一隊で203高地を挟み撃ちにして、早期占領する。そこへ駆けつけてきたロシアの援軍と戦う』
というお膳立てである
児玉源太郎という満州軍の総司令が203高地に駆けつけることにもなった。
203高地の抵抗は、かなりなものであったが、日本軍の勇猛な戦いで占拠できた。
駆けつけてきたロシアの大軍と乃木隊は良く戦った。
白兵戦ならお手の物である。
ロシア軍の大敗であった。
ロシア軍は軍をなさないほど壊滅された。
旅順港も日本軍の制圧下に入った。
その後も残っていた砦を順番に潰した。
ロシアの敗戦は確定的になった。
年が明けてロシアから敗戦を申し入れてきた。
明治38年のことである。
有名な乃木とステッセリの水師営の会談となったのである。
お互いに武勇を称えあった。
また、ステッセリは乃木の2人の息子の戦死を悼んだそうである。
4
しかしそうこうしている内にも、バルチック艦隊は日本海に向けて進んで来ている。
日英同盟のおかげで、ロシア艦隊はイギリスに関わりりがある港への入港は拒否されたため、燃料補給などままならないまま、進んできていた。
おまけに旅順港はなくなったため、疲弊した状態で日本海を通過し、ウラジオストックへ向かうしかなかったのである。
東郷平八郎を元帥とする日本海軍はいまや遅しと待ち構えていたのであった。
バルチック艦隊到着とともに日本海大海戦が展開されたが、日本海軍の大勝利で終わったことは良く知られているところである。
この日露戦争での日本軍の勝利により、ロシアは南下政策を諦めた。
日本海は再び日本にとって安全な海に戻ったのであった。
もし日本軍が負けていたら、すなわち旅順の要塞が落とせていなかったら、朝鮮半島から日本国土一帯はロシアの属領になっていたかも知れないという、極めて危ない話しであった。
また、この日本の勝利は世界各国から絶賛・評価され、世界の先進国の仲間入りができたと云われている。
更に、有色人が白人に勝ったということで、世界的な独立運動の気運が生まれたとも云われる。
戦争が終結してから乃木は明治天皇の命により、学習院の院長に就任した。
昭和天皇を始め天皇家の子弟教育を任せられたのであった。
希典には最も似つかわしい仕事だったかも知れない。
湘南海岸に生徒を連れて海水浴に行っている時に、明治天皇危篤の知らせを受けた。
そしてついに天皇が崩御され、大喪の9月13日に、自宅に帰ってから、静子夫人とともに自殺し、天皇の後を追ったということである。
今回訪問した乃木神社は伏見桃山の明治天皇陵に向かって鎮座している。
「桃山の 麓に光る 旅の跡
四季の移ろい 愉しみたりや」
〔のノ段 完〕