根来(ねごろ)街道とは大阪府の泉南から和歌山県にある根来寺へ至る参詣の道である。
根来寺の寺名は、この地域の地名から来たものと云われる。
「根」は山の根っこ、すなわち岩盤を表し、「ごろ」はゴロゴロそのものを表して、合わせて岩がゴロゴロしているところという由来であると思われる。

根来寺は平安末期のころ、覚鑁(かくばん)上人によって建立された新義真言宗の大寺院である。
しかし、この寺は止む無く建てられたものであった。
その経過はこうである。

高野山真言宗の中興の祖と云われる覚鑁(興教大師)が紀州高野山に大伝法院を設立したのがことの起こりである。
1130年のことである。

この覚鑁、高野山のリーダーとなったが、厳格過ぎたのか、暫くして反対する僧達に疎まれ、高野山を追い出されてしまったのであった。
というより、こんなレベルの低い僧に教える気もせず、見捨てて、新天地を開拓しようとしたのであった。

もちろん、この覚鑁に従う僧も沢山いた。
再興を期して、紀ノ川を下り、根来の里に、教義伝導の一大道場として、根来寺を建立したのであった。
寺領は平為里が寄進したといわれる。

根来寺は時流に乗って発展し、室町時代末期には寺領七十二万石、数百の学舎と数千人の学僧を抱えるまでになったと云われる。

勿論警護のために、僧兵として武術を学ぶ者も多くいて、一代勢力を形成したのであった。

根来街道は信長の雑賀・根来攻めが初の戦の道となった。
しかし信長の場合は示威行為だけのものであった。

秀吉の場合はそうではなかった。
彼は小心者故、何とか雑賀・根来撲滅しようと大勢力で攻め寄せたのであった。
根来街道を参詣目的ではなく、寺の撲滅目的で辿ったのでる。

それは、天正13年3月のことである。
異常なまでの攻めであった。
秀吉は根来のみならず、もう一つの大勢力・雑賀もろとも紀州勢力の完全撲滅を狙っていた。

少し前のこと、秀吉は紀州攻めの口実を探していた。
天正12年(信長没2年後)、小牧・長久手の戦いが起こった。
秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍との戦いである。
紀州の人々にとっては、興味のない関係のない戦いであった。

紀州は元々、自領は安堵されている。
他人の土地までも、恩賞で貰う積りも無い。
お呼びが掛かれば、その時考えればよい…。

雑賀の輩は「さかな釣りでも、しとこうかのう」と、のんびりしていた。

そこへ知らせ…。
「大阪方が、攻めてきた」、「援軍を!」
泉州の出先砦からの早馬が根来寺に着いた。

「なにをするのか 馬鹿者どもらが…」
「雑賀にも連絡せい 海から行ってくれと…」
程なく、和泉山脈を越える根来の一団、加太沖を進む雑賀の舟があった。

秀吉軍は、紀州が出たことを聞き、前線をサッと引かせた。
ズルコイやり方である。品性なんて全くない。
紀州の部隊は程なく貝塚まで着いたが、何もなかった。

そして、秀吉の策略にまんまと掛かってしまったのであった。
「ワシの留守の間に、大坂を攻めよった。 紀州のやつらがのう…」
口実がみごとにできた。

小牧の戦いが終わった次の年、秀吉は紀州を攻めた。
10万の大軍である。

根来や雑賀、そして市民は良く戦った。
しかし、10万の戦闘集団には勝てなかった。

根来寺や粉河寺、雑賀の荘や城、悉く炎上した。

また、最後の拠点の紀州連合の根城・太田城は、秀吉得意の水攻めにて水没し、全ては決着した。

そして、後日譚ではあるが、前後して根来や雑賀の鉄砲達人達は徳川軍に召し抱えられ、常に先鋒として活躍したと云われる。
紀州の伝統は徳川によって再生されたのであった。

一方、根来寺を焼かれた僧たちは、一旦高野山へ教堂を移し、再興を期したという。
しかし、それは家康が天下人になるまで、10年以上も待たなければならなかったのである。

京都の地へ、根来寺の係流の智積院の建立がなされた。
そして本家の根来寺では、焼け残って現存する国宝の大塔・大師堂以外の建物は、徳川氏の庇護を受けて、復興したのであった。

冒頭から、根来街道の終着点、根来寺とそれにまつわる話になってしまい、申し訳ない。
しかし、この街道は根来寺の話に尽きることも事実である。

根来街道は、泉南の地で浪華から来た紀州街道すなわち熊野街道が3つに分かれたその一つである。その3つとは、西の海側を通り孝子(きよし)峠を越える孝子越街道。
東を通り風吹峠を越えるこの根来街道。
そして真ん中を通る本来の紀州街道である。

JR和泉砂川駅を起点に、根来街道を進んでみる。
殆どが自動車道となっているので、歩くのは危険が伴う。
今回は車で辿ることにした。

和泉砂川から車で風吹峠を目指す。
途中に金熊寺(きんゆうじ)という古刹がある。
奈良時代になる前の682年、役行者が開基したという。

勿論この寺も秀吉の手によって焼かれたのであるが、その後再建され、江戸時代にも、約四万七千坪の寺領があったといわれる。
しかし、現在は塔頭の観音院だけが残っているのみである。
裏山には見事な梅林があるといわれるが、時期外れであるのは残念である。

少し離れて信達(しんだち)神社がある。
元々は金熊寺の鎮守社であったが、明治の廃仏毀釈により、信達神社と独立したものである。

更に南に進む。
左手奥に堀河(ほりご)ダムがある。
大阪・和歌山の府県境の和泉山脈の山々からの水を集めて、灌漑用のダムとしたものである。
桜の木がたくさんある。
見事な花見が楽しめそうだが、今は緑一色であり、これも残念であった。

この辺りは、信達(しんだち)童子畑(わらずばた)という。
そう云えば先ほどの金熊寺もそうだが、難読地名の多い場所であるようである。

そろそろ風吹峠に近くなった。峠の手前に道の駅があった。
「根来さくらの里」という。
ちょっと、小休止・・。

ここからはひとっ走り。
峠をトンネルで抜けると、すぐ根来の里である。

根来寺に着いた。
大門を見て、駐車場へ…。

拝観受付と、ご朱印をお願いした。
受け付けてくれた女性の方に聞いてみた。
「昔、寺をめぐって、戦いがあったそうですね…」

答えは一言、
「秀吉に焼かれた…」
であった。

この寺院の方はもちろんのこと、この辺りの人たちの気持ちを代表しているようなのような気がした。

〔完〕