京都市内の南北の通り「寺町通り」は、戦国時代末期、豊臣秀吉の京都改造によって作られた400年前からの、比較的新しい名称の通りである。
元はと云えば、平安京の東の端の通り「東京極大路」のあったところであるが、応仁の乱で荒廃してからは、当時はあまり見向きもされていなかったところであった。

よくご存じのように、戦国時代も収まりかけた頃、とりあえず天下の主となった秀吉は、自らの住み家として、京の町に改造を加えた。
但し、彼の場合は、自らの権勢を誇示するためのもので、動機は不純、真の住みやすい町造りとは云えなかった。
それに、金と情報の力に恐れてもいた。
それも合わせて、解決しようとした。

秀吉の思いは、
「信長のように朝廷に殺されては堪らない」
「武将や豪商に、金を持たせてはならない」
「町民には、宗教に溺れさせ、蜂起されては堪らない」
こんなことを考えて、京都改造に取り組んだのであった。

信長は天皇の家来になることを拒否したが、秀吉は先ず、天皇の家来となることを考えた。
最初は征夷大将軍を望んだが、それも叶えられず関白で我慢した。

何と云っても、天皇に変わって天下を治める天下人である。
まず城を造らなければならない。

そこで、平安京の大内裏の跡に聚楽第と云う見事な城を造った。
現在の二条城の直ぐ北である。
天守閣もあったそうであるが、その記録は残っていない。
城下に大名屋敷、武家屋敷を造った。
その後の城下町の原型となったものである。
もちろん、軍師黒田官兵衛や、後に切腹を命じられる千利休の屋敷も造られた。

聚楽第や武家屋敷の建設場所は広大である。
当然のことながら、この場所には多くの寺があった。
それを立ち退きさせるのであるが、引越しする場所を与えてやらなければならない。
一挙両得で、民衆と寺を分離するためにも好都合である。
寺と云う寺が移動させられ、都の片隅に置かれた。
度重なる氾濫で人家もまばらな鴨川土手に並べられた。
寺町とか寺ノ内とか名付けられた。

しかし、それだけでは、天皇家に対しては気が引ける。
合わせて御所の改造にも多額の資金を提供した。
御所は新造されたように見事なものとなった。

配下の大名に、金と使役を課したことは勿論である。
京や大坂の豪商にも、商売を安堵する代わりに、金を出させた。
世の中の富も人も、京都に集中させた。
この時期、京には20万とも30万とも云われる人が工事要員として、豊臣大名や豪商を先頭に集まっていたそうである。

そして、最後の仕上げとして、「御土居(おどい)」と云われる、京の町を守るための城壁?を造った。
高さ5m、幅20mの土塁と、外側の深さ5m、幅10数mの堀の構成である。

御土居何から京都を守るのか?
一つは鴨川の水害である。
そのためこの御土居は、北の方は、都の遥か北、紫野や鷹が峰辺りに築かれた。
鴨川の上流での氾濫に対応するためである。

東側は、鴨川の土手として築かれた。
丁度現在の河原町通りが御土居であった。
御土居の直ぐ内側には、先ほどの通り、多くの寺を配置した。

西は紙屋川を堀に、南は東寺の南側、九条通りあたりである。
御土居は全周約23Kmの都を取り囲む城壁となっていた。

京の町を御土居で囲んでしまった訳は、もう一つある。
それは天皇や禁裏の守備隊(四座雑色、しざぞうしき)を洛外に追放するためである。
城壁で囲んだので、守備は必要なしと理由づけた。
このようにして、朝廷を孤立させるのも、大きな狙いであった。

御土居には七口と云われる出入り口があった。
この七つの口を固めておけば、一応、京への出入りはチェックできる。
少人数の侵入は、何処からでも御土居を越えられるので、それは気にせず、大人数(軍団)の侵入を監視する役目もあった。

前置きが相当長くなってしまったが、一口に寺町と云っても、このような背景があったのである。

とりあえずこのような下調べをしておいて、寺町通りを北から歩いて見ることにする。

寺町通りの北の出発点は、葵祭の行列が巡行する加茂街道、賀茂川右岸の鞍馬口通りとの交差点である。
ここには上善寺という京の六地蔵で知られる古刹がある。
六地蔵とは、あの冥途通いの小野篁が彫った六体の地蔵が京の寺々に分散されて祀られている、その一つである。
住職がおられたので、話を聞いてみた。
「元からこの地ですか?」
「いやいや、秀吉ですよ…。
あの時ここに移されたんですよ。」
これで話は通じる。
まだ400年前の歴史が生きている。

「前は比叡山の天台宗の寺院であったが、ここに来た時に浄土宗に改宗したんです。
墓地には長州人の首塚があって、今でも多くのお参りがあるんですよ。
お参りしていって下さい。」
蛤御門の変などで戦死した人たちの墓である。
早速お参りさせてもらって、上善寺を後に、通りを南下し始めたのであった。

まず、左手に大きな寺院、天寧寺がある。
この寺は元々は会津城下にあった寺であるが、この地に移転したと云うことである。
比叡山の眺望を絵のように見せる山門「額縁門」は有名であるが、この時は門は閉じられていて拝見できなかったのは残念である。
また江戸時代の茶人金森宗和の墓もこの寺にある。

続いて西園寺、長休寺、そして右手に応仁の乱の開戦地として知られる上御霊(ごりょう)神社への参道も見られる。

次に注目すべきは「阿弥陀寺」てあろう。
この寺も、もちろん市中から移動させられた寺である。
開基創建は織田信長の家族と云っても良い程の清玉上人である。

本能寺の変にて信長が自害に追い込まれたが、その本能寺の北方の、そう遠くない場所に  あった阿弥陀寺から上人らがいち早く駆け付け、信長や森兄弟の亡骸を寺に持ち帰り、菩提を弔ったことで知られている。
勿論、信長を護れなかった明智光秀も悔悟の念を持って、その葬儀には参列したと云われている。

寺内の墓地には、信長や森蘭丸兄弟達の墓が護られ、そして清玉上人の墓も建立されている。
清玉上人は数か月後の秀吉が主催した大徳寺葬儀にも、頑として亡骸を引き渡さなかったと云われている気概のある人物である。

寺は続く。山門だけの拝見で南下を続ける。

本満寺という大寺院がある。
日蓮宗の京都16寺院の1つである。
近衛家と繋がりが深く、この寺は、秀吉の移転騒ぎの数十年前からこの地に建立されたいたと云われる。
境内には山中幸盛(山中鹿之介)の墓もある。
春には枝垂桜が綺麗に境内を飾ることでも有名な寺である。

更に南下を続ける。
道の両側には商店が見られるようになる。
老舗の料理屋のような建物も見られる。伝統的な町屋の風景も見られる。
程なく出町商店街である枡形商店街の西の入り口に到達した。

すぐ南の大きな通りは東西の通り今出川通りである。そして京都御苑がそこから始まる。
ここで一区切りとしよう。
出町と云うところは、若狭からの鯖街道の終着点である。
美味しい鯖寿司でも頂こうと、高級そうな店は避け、蕎麦屋さんに入って頂いたのであった。

寺町通りに戻り、今出川通りを横切り、南下を続ける。
左手に、大きな寺院法華宗本禅寺がある。
大久保彦左衛門と繋がりが深く、彦左衛門の墓もある。

続いて清浄華院、清和天皇の開基による寺である。
元々は室町通りにあった寺で、足利一族や公家や天皇家の崇敬をうけたと云われている。

次は廬山寺、天台宗の寺である。
この場所は、平安時代は紫式部の家系、すなわち藤原家の代々の居宅であった場所である。
紫式部の曽祖父、中納言藤原兼輔、御存じ堤中納言と呼ばれた。
この屋敷の東は鴨川の堤だったとの言われである。

紫式部は藤原宣孝と結婚してからも、この屋敷で住んで、かの有名な源氏物語を書いた。
この場所は平安京の碁盤の目の東の端で、鴨川を見下ろし、東山・比叡山を見上げる、風光明媚なところであった。
四季に応じて、様々な、人の生きざまが浮かぶ環境で、創作には最適だったと思われる。

紫式部の居宅は天台宗の廬山寺となっているが、式部の偉業を讃え、枯山水の庭には紫(桔梗)を咲かせている。

更に南下する。
左手に、京都府立鴨沂(おおき)高校がある。
正門は寺の山門風である。どこかの寺院の跡地であろうか?
この学校の前身は日本最古の旧制高等女学校として創立されたものである。
この学校がこの地にあると云うのは、紫式部という日本一の才媛を讃えてであろうか?

この辺りから右手は京都御苑の外壁となる。塀の上は蒼々とした緑である。
南下を続ける。
同志社設立の新島襄の旧邸と新島会館、そして日本基督教団の教会が続く。
寺町と云っても、海外の寺町のような雰囲気の一角である。

直ぐに丸太町通りと交差する。
京都御苑もここが南端である。

丸太町通りを横断して、更に南下を続ける。
ここから先は「丸竹夷二、押御池、姉三六角、蛸錦…、」と歌われる京の通りの数え歌に従って南下することになる。

すぐの左手に下御霊神社がある。
神社発見は初めてである。
御霊信仰は平安期の疫病を退治する為に始まったもので、北と南に神社が創建され、北の上御霊神社に対して、下御霊神社と云われている。

少し南には通称「革堂」と云われる西国三十三ヶ所の寺、行願寺がある。
開山は行円上人で、僧になる前は猟師であったと云われる。
上人は街頭での布教の時に、寒さ暑さに関係なく、常に鹿革の衣を着ていたことから、革聖とか皮上人と呼れたことから、その通称が生まれたものと云われている。
行円上人は、山中で射止めた雌鹿の腹から子鹿が生まれたのを見て、殺生を悔いて仏門に入ったと云われる。
そして、殺された鹿に無常を感じ、その鹿皮を夏冬構わず離さなかったと云われている。

更に南下すると、寺と云うよりも商家が多くなってくる。
江戸時代になると寺町は門前町の体裁も整い、書物や数珠、文庫、筆、薬などを商う商人がこの道沿いに集まり住み、商店街の原型を作ったと云われている。
当時から続いている店もあり、その建物とともに歴史を感じる通りとなっている。

右手には藤原定家の京極邸址も見られる。

更に南下すると、左手に京都市役所の趣のある建物が見えてくる。
この横を通り過ぎると、御池通りと交差し、それを渡る。
ここからは、寺町通りがアーケードで覆われている。
いよいよ、繁華街に入ってくる。この辺りからは寺町京極と云われる通りとなる。

すぐ左手に、本能寺の寺門がある。能の文字は、偏はそのままだが、旁には「ヒ2つ」では無しに、「去」の字が書かれている。
これは、余りにも多くの火災にまみえたことから火を去ると云うことで、あてられたと云うことである。
勿論のこと御存じ本能寺の変で、信長が襲われた寺であるが、その時の本能寺はずっと西の方、当時の平安京の紫宸殿前の庭園、神泉苑の東にあった。
この寺も秀吉の手によって、この地に移されたということである。
信長終焉の地までも移動させてしまっている。それはどうなんであろうか?

更に南下する。
左手に矢田寺という小さなお堂の寺がある。
この寺は、東山六道にある六道珍皇寺(ちんのうじ)のお盆の時の迎え鐘に対して送り鐘と云われ、セットになっている。

三条通に達する。
ここからは道が2つに分かれる。
右に行けば寺町通り、左に行けば新京極通りである。

新京極通りは、寺々の縁日に人が集まる寺裏の屋台通りを、明治になって、第2代の京都府知事槇村正直が各寺院の境内を整理し、新しく通りとしたものである。 明治の中頃には見世物小屋や芝居小屋、昭和の時代には映画館が並び、そして修学旅行生が訪れるメッカとなっている通りである。
今も観光客が絶えない通りでもある。
新京極通りは、三条から四条の間に造られている。

かつては新京極と寺町は、観光客通りと、老舗商店街との棲み分けがあったが、現在は両者が一体となって、四条通り、河原町通りと合わせて、京都一のショッピングゾーンを形成している。

さて、寺町通りへ戻ろう…。

三条の角には、日本のすき焼き・牛鍋の草分けである「MS亭」がある。
明治の初めに長崎で学び、当地に伝えて商売を始めたと云われる。
以降、130年もの長い歴史を持つ店である。
余談であるが、筋向いにはかに料理の有名店「かにDR」京都本店も古くからある。

四条通りに向けて南下する。
さすがに繁華街である。多くの客が行き来、混雑している。
程なく錦通りと交差する。
云わずと知れた京の台所、錦市場の通りである。
探索してみたいが、これは次回に譲って、先を急ごう。

四条寺町の交差点を南に渡る。
ここから南は、かつての電機店街であった。
京都の大手の量販店が軒を並べていて、活気があった。
東京の秋葉原、大阪の日本橋を少し小さくしたようなものであった。

しかし今はどうだろう…?
電気に関係した店はあるが、その面影はもうない。
今は郊外へと変わって行ったのであろうか?
商業の栄枯盛衰を感じる街並みである。

更に南へ行くと、大きな通りと斜めに交差する。
寺町通りは東隣の河原町通りと平行に並んでいたが、ここで河原町通りが斜めに切れ込んで、直ぐ南へ伸びている寺町通りと交差する。
この交差点角に、京都では有名な画材の店「GS堂」がある。

更に南へ進む。
終点の五条通りが見えている。
五条通りに突き当たって、まず牛若丸と弁慶の可愛い石像を拝見する。
そして五条大橋の袂から東山を眺めて、街道旅は終わりとなった。

五条大橋を渡ると、右手には伏見の町に繋がる伏見街道に繋がっていくのである。

〔完〕