ここ京都南山城地域は、宇治茶の産地である。
「茶畑の道」とは、文化観光に期待を寄せるこの地の人達が名付けたものである。

起点は、木津川市加茂町の木津川の右岸にある遺跡と古刹、「恭仁(くに)京跡」、「山城国分寺跡」、国宝五重塔を擁する寺「海住山寺(かいじゅうせんじ)」。
この地から、和束川を遡り、茶畑を眺める「茶源郷」和束へと至るのである。

恭仁京は、奈良時代、藤原広嗣の乱の後のこと、740年に聖武天皇によって、平城京から、この地に遷都された。この地が選ばれた理由は左大臣・橘諸兄の本拠地であったからと云われている。

大極殿が平城京から移築され、大宮垣が築かれて行き、宮殿が造られた。
条坊地割が行われ、木津川に大きな橋が架けられたと云う。
しかし、都としては完成しないまま3年後に、造営が中止され、聖武天皇は紫香楽宮に移り、近江宮を経由して、745年には都は元の平城京に戻されたと云う。

そして、恭仁京の宮城の跡地は、山城国分寺として再利用されることになり、大極殿は金堂に転用されたと云う。

海住山寺は、この恭仁京を見下ろす、三上山中腹にあり、今は真言宗智山派。京の智積院の系統の仏教寺院である。
鎌倉時代に慈心(じしん)上人覚真(かくしん、藤原長房)が建立した国宝の五重塔は室生寺についで、日本では2番目に小さいと云われるが、立派なものである。
この寺は、聖武天皇が東大寺大仏の造立工事の無事を祈願し、建立したものと云われている。

この、恭仁京と海住山寺を後に、北へと進む。
両側から山が迫る川沿いの道を辿る。
川の対岸には、大きな岩に掘られた磨崖仏も見られる。
山間を抜けると、そこは「茶源郷 和束(わずか)」、いよいよ茶畑を眺めることになる。

和束は広大な地域ではない。山の両斜面を利用して、茶畑が作られている。

なぜ、茶源郷なのか?
それを紐解くには、我が国の茶の歴史を遡らなければならない。

お茶の祖と云えば禅宗の祖、建仁寺開山のよく御存じの栄西禅師であろう。
栄西が中国から茶種を持ち帰って、日本において茶の栽培を奨励し、喫茶の法を普及した。

それ以前、我が国に茶樹がなかったわけでも、喫茶の風がなかったわけでもない。
我が国に茶の種が入ったのは、古く奈良時代、遣隋使の手と思われる。
そして平安時代には、貴族や僧侶の上流社会の間に喫茶の風が愛用されていた。

栄西が少年時代を過ごした叡山にも、伝教大師以来、古くから茶との結びつきがあった。
この伝統の影響を受けて栄西は、茶種の招来、喫茶の奨励、いままでごく一部の上流社会だけに限られていた茶を、広く一般社会にまで拡大させたと云うことである。

喫茶の法の普及と禅宗の伝来とは深い関係があるが、これはまた別の機会に…。

栄西は1191年肥前佐賀脊振山(せぶりやま)の中腹にある霊仙(りょうぜん)寺に、宋から持ち帰った茶の種を蒔いたのが茶の栽培の最初とされる。

その茶が、次に京の高山寺の明恵(めいけい)上人に伝え栽培されたと云う。

そして、海住山寺の高僧慈心上人が、その栂尾・高山寺の明恵上人より茶の種子の分与を受け、鷲峰山(じゅぶさん)山麓のこの地に栽培したのが茶産業の開始と云われている。

この和束から、宇治地区一帯に茶の栽培が広げられ、和束は江戸時代には皇室領となり、京都御所にも茶を納めることになったのである。
また、宇治茶は将軍家御用達となり、お茶壺道中も行われたのである。

それではなぜ宇治茶が御用達になったのか?
我が国最初の茶や品質と云うこともあろうが、それには次の秘話もある。

時は関ヶ原の戦いの40日ほど前のこと、所は京都伏見城のことである。
徳川家康は、会津上杉征伐ため、大坂城から会津へ向かうことになったが、その前に居城・伏見城に一旦帰った。

旗本・大名を前にして、
「この伏見城は、儂が不在の間、必ずや襲う輩がある。それで、守りの事じゃが…。会津に大軍を向けねばならない故、守備は総大将に鳥居元忠、そして内藤家長、松平近正・家忠と四将に申し付けるぞ…。会津に大軍を向けねばならない故、人数は割けん。ただし鉄砲200丁は残すぞ…」

更に家康は続けた。
「この4人には会津への討伐がかなわず、人数も少なく、苦労かけるが…。しかし、貴殿らを残すことに決めたのは、よくよく考えてのことじゃ」

「殿、そういうことはござらん。会津攻めは大事な戦、一人でも多く連れて行かれるべきじゃ。京・大坂が平穏ならば、拙者と近正だけでことは足り申す。じゃが、殿が出て行った後、敵の大軍が押し寄せれば、近くには後詰めを頼む見方もござらん。守り通すのは無理でござる。貴重なお見方をこの城に残すのは無益なことでござる」

この後は、家康、元忠主従、昔話に花が咲いたという。

あくる日、6月18日、家康は、守将4人に見送られ、堂々たる陣容で、上杉征伐にと出発したのであった。
家康の去りゆく姿を見て元忠は身震いすることしきり、しかし涙はこらえたと云う。

この後、程なく4万の大軍が伏見城に押し寄せた。
大将は宇喜多秀家、副将小早川秀秋、その他毛利秀元、吉川広家、小西行長、島津義弘、…など、壮々たる陣容であった。
しかし、やる気の無い将の方が多かった
付き合い出陣である。

城側は4人の将と手勢1800人、それと堅固な城、これだけである。

ここに、宇治にて茶業営む竹庵と云う人物がいる。
伏見籠城の噂を聞き、城におっとり刀で駆けつけた。
「鳥居殿、拙者を籠城戦のお仲間に…。殿の家康殿には、大きな恩義がござる故…」
「竹庵殿、貴殿はもはや町人の身でござる。町人まで巻き込むのは、本意ではござらん。早々に帰られよ」
「何と言われる。殿へのご恩返しは今こそござらん。お返事頂戴つかまつる。でなければ今ここで腹を切る」
詰め寄られて、元忠は竹庵の籠城を許し、太鼓丸の守備隊長としたという。

さて本題の伏見城攻め、7月19日から始まった。
あらゆる場所から攻めてくるから、堪ったもんではないが、10日間も持ちこたえていた。
寄せ手側は、攻めても攻めても結果は出ない。
もう疲れきっていた。
籠城側も疲れてはいるが、死ぬ気で戦っているため、それは感じない。
意気揚々であった。

ここで策を弄したのが、攻め手の甲賀水口城主の長束正家、籠城側の甲賀衆に既に通じている。
一計を画策した。
「火を放ち、寄せ手を引き入れよ。さもなくば、国元の妻子一族を皆殺しにする」
と汚い手を使うものである。
「今夜、亥の刻に内応する」
と返事が来た。

翌朝、火の手が上がった。
甲賀衆は混乱に紛れて、石垣を崩した。
西軍が次々なだれ込んだ。
守将は次々に撃ち取られた。
松平家忠、松平近正、上林竹庵、それでも、元忠は本丸で奮戦した。
200名で西軍を3度も追い返したと云う。
しかし、もう周りには10人程しかいなくなっていた。

元忠は力尽きて、長刀を杖に、石段にドッカと寄りかかった所であった。
そこへ、雑賀重朝が現れた。
三人いると云われる雑賀孫市の一人である。

元忠はゆっくり立ちあがり、
「我こそは、伏見の総大将、鳥居元忠である!」
雑賀は、ひざまずき、
「鳥居殿、伏見の城は燃えてござる。お静かにご自害を!」
元忠は、「うん」と頷き、兜を脱いだ。
見事な切腹であった。

伏見の城は、落城した。

この10日以上の戦いで、西軍は疲弊し、直ぐには立ち上がれなかった。
元忠や家康の目的は、大いに達したのであった。

そして、関ヶ原の戦いも終わった。

伏見城の本丸は燃えなかったが、板の間には元忠始め、多くの武士の血痕が残されていた。
血天井として、京都の養源院を始め正伝寺などに現在も残されている。
また、元忠の血染め畳は家康が江戸城に持ち帰り、伏見櫓に収めて、元忠の精忠を偲んだと云われる。

家康は、伏見に籠城した将達の子弟をば、手元に置いて、決して危ないところには行かせず、この後それぞれ加増して、家を継がせたと云う。
お茶の上林一族には、宇治茶の総支配を仰せつけ、宇治代官に任じて宇治茶を重用したと云う。

また、将軍家光は、将軍家のお茶を宇治から取り寄せる豪華な行列「お茶壺道中」を行ったのは有名な話である。
上林一族は禁裏御所御用、幕府御用の茶師となり最高の位の御物茶師として江戸時代をおくり、今もその伝統は継続している。

それを支えてきた和束の茶、誇らしげに「茶源郷」を掲げている。

「山あいに 誇りと競う 茶畑や  歴史を支え 今薫るなり」

〔完〕