曽根崎通りとは、大阪市のキタ地区にある。
国道1号線とそれに繋がる国道2号線の、丁度JR大阪環状線の内側の部分に該当する。
詳しく云うと、東は桜の通り抜けで知られる造幣局の少し東から大川を渡り、西へと進み、梅田・大阪駅前を通り抜け、福島から野田阪神に至る。

またこの道路の地下には、曽根崎通りに該当する部分だけ、地下電車JR東西線が通っている。
車道、鉄道と、地上地下とも主要な幹線となっているのであるである。

この通りは大都会を通り抜けるだけあって多くの話題がある。

まずは歩いて見よう。
出発は造幣局の横の大川の向こう、東野田である。
大川を銀橋と云われる橋で渡り、造幣局を左に見ながら西へ進む。
造幣局の門の周辺は、桜見物の人で溢れている。

少し行くと歩車道の境目に、「大塩の乱 槐 跡」という石碑がある。
『ここに天保8年(1837)、大塩平八郎の乱の砲弾で裂けた樹齢200年の槐(えんじゅ)があったが、枯死したことによって、新たに若木を植え、歴史の証人の生命を伝える』と書かれている。

この通りにの南北周辺で行われた大塩の乱とは、以下の経緯である。

大塩平八郎は大坂町奉行所の元与力であり、陽明学者でもあった。
与力当時に、禁じられている無尽に関与しているとして、その不正を行っている武家・大名を幕閣に告発する書状を何度も江戸に送ったが、無視されたのが乱の契機となった。
当時、財政難に苦しむ武家連中は自領内で無尽を行い莫大な利益を上げていたのであった。

平八郎は大坂で行われていた不法無尽に注目して捜査していた。
無尽を行っていた大名の中には幕閣の要人、水野忠邦や大久保忠真ら、当時の現職老中も関与していたという証拠も握った。
捜査すべき立場の者が容疑者となるがやむを得ない。
摘発はゆるさじと、彼らはその証拠を隠蔽し、捜査を中断させてしまったと云う。

その握りつぶしの云い訳は稚拙である。
告発状は飛脚が江戸まで運ぶのであるが、飛脚が箱根山中で金目当てに荷物を開封したら、書状だけであったので頭にきて捨てたとか、盗賊に盗まれたとか、全て飛脚のせいにしたのである。

平八郎はさらにその隠蔽の事実も追及したのであった。
幕府にとっては痛いところを突かれ、煙たい存在になった平八郎、平八郎もその時、潮時と感じたのか家督を養子の格之助に譲って隠居したのであった。

その後、江戸に蔓延していた米不足が広がり、大坂も米飢饉となった。

奉行所OBの平八郎は、奉行所に対して民衆の救援を提言した。
しかしその思いは拒否された。
仕方なく自らの蔵書五万冊を全て売却し、600両の資金を使ってその救済に当たったと云う。

そんな中、老中水野忠邦の実弟である大坂町奉行の跡部良弼は、大坂の窮状をよそに、豪商から購入した米を新将軍徳川家慶就任の儀式のために、江戸へ送ったという。
その事実を格之助は発見して、平八郎に相談した。

更に調べて見ると、豪商たちは利を求めて更に米の買い占めを図っていたことも明らかになった。
奉行や豪商達に対して、平八郎らの怒りが頂点に達したのであった。

平八郎は家財を売却し、家族を離縁した上で、大砲などの火器や焙烙玉を整えたと云う。
そして陽明学の私塾の師弟に軍事訓練を施し、豪商らに対して天誅を加えるべしと決意を固めたのであった。

さらに、金一朱と交換できる施行札を大坂市中と近在の村に配布し、決起の檄文で、参加を呼びかけたのであった。

そして新任の西町奉行堀利堅が東町奉行の跡部に挨拶に来る2月19日を決起の日と決め、同日に両者を爆薬で襲撃、爆死させる計画を立てたのであった。

ところが決起直前になって内通者が出てしまい、計画は奉行所に察知されるところとなってしまった。
それでも2月19日、平八郎は自らの屋敷に火をかけるとともに、同志数十名とともに「救民」の旗をかかげて挙兵したのであった。
そして大坂の豪商宅に放火を開始した。
しかし多勢に無勢、僅か半日にして鎮圧されてしまった。

その後、平八郎は格之助と共に40日余りの逃避行を続けた。
大坂に戻り、靱(うつぼ)油掛町の町家に潜伏していたが、出入りする奉公人に通報されてしまったのであった。
そして火を放って 、格之助と共に自刃した。
平八郎は44歳、格之助は27歳であった。

この「大塩の乱」の決起は失敗に終わった。
しかし、幕府の役人だった大塩平八郎がこのような反乱を起こしたことは、幕閣や幕政に不満を持つ民衆たちに大きな衝撃を与えた。

この事件を境に全国で同様の乱が頻発し、その首謀者たちは「大塩門弟」「大塩残党」などと称して、一世を風靡した。
そして30年後の明治維新にも、少なからず影響を与えたと云われている。
平八郎・格之助自刃の地は梅田の駅からは南西方向にあたる。
そこの石碑にも詳細なことが書かれている。

大塩の乱を辿っているうちに天満や梅田を通り過ぎてしまったようである。
天満や梅田には大阪天満宮や曽根崎のお初天神、それに堀川恵比須や新装なった大阪駅や貨物駅跡に建設中の北ヤードなど、由緒あるところが多いが、今回は通り過ぎることになってしまった。

曽根崎通りは福島の区域に入る。

少し南の堂島川沿いは、朝日放送を取り巻く「ほたるまち」と云う新しい街区になっている。
一万円札の福沢諭吉の生誕地もここである。

福島から野田へ向かう。
この辺りは、信長の石山本願寺戦争や徳川vs豊臣の大坂の陣の舞台になったところである。
大坂から云えば、瀬戸内海から中国四国へ繋がる西方向の守りを固める重要な拠点であったためであろうか…?

も少し行って、野田阪神駅=JR海老江駅に到着して街道は終点となった。
野田阪神駅付近を少し探索する。

ご存じの方も多いと思われるが、ここは松下幸之助が松下電器産業(現社名はパナソニック)を創業した土地である。
商店街の入り口に、なにわの出世街道との掲示がある。
この商店街を歩いてみることにした。

暫く行って商店街を逸れたところ、西野田工科高校の東側の大開公園がある。
その公園に、表側「松下幸之助創業の地」、裏側「道」と云う自然石の碑が建てられている。

このあたりには「松下電気器具製作所」の創業時の建物が点在していたと云う。
第一次本店・工場の建物、第二次本店・工場、第二工場の跡地などである。
それを案内する地図も整備され、順番に訪れて見た。
残っているものは何もないが、当時の雰囲気が偲ばれるような町並であった。

松下幸之助は和歌山から9歳で大阪へ丁稚奉公に出て来たと云う。
そのころから商才を発揮したようである。
ある日、大阪に走っている路面電車を見て感激し、電気に関わる仕事を志すことになった。
そして16歳で今の関西電力の前身の大阪電燈に入社したのであった。

もともとアイデアマンだった幸之助は、在職中に、簡単に当時の電球を取り外すことができる電球ソケットを考え出していた。
それを事業にしようと7年で退職し、大阪東成の自宅で製造販売を始めたのであった。

事業がヒットしてその場所が手狭になったため、この西野田の地に移り、電球ソケットのみならず、自転車用の発電ランプなどを考案して、松下電器製作所を発足させたのであった。

以後、第2次世界大戦を挟んで、紆余曲折はあったが、立派に会社を築き上げ、その流れは今日、巨大な会社として立派に生きているのである。

曽根崎通りの探索、まだまだ沢山のことがりそうである。

また次の機会に訪れることにして、今回の探索は終了した。

「大阪の 繁華街抜く 曽根崎に  ツワモノありて 東に西に」

〔完〕