平安京の朱雀大路を歩いて見ることにする。
とは云っても、朱雀大路はもう地中に埋もれている。

幸いなことにその埋もれた上に新しい通りができている。
それは千本通りという。
この千本通りを北から南へ、当時の遺跡を訪ねながら歩いて見ることにする。

出発点を平安京大極殿跡とする。
現在の千本丸太町交差点のあたりにある。

先に少し余談をさせていただく。
古代中国では、都の真ん中を南北に貫く通りを朱雀大路と名付けている。
我が国も遣隋使が持ち帰ったその情報により、藤原京、平城京、平安京の中央大通りをそう名付けている。

これは古代中国の風水の、都市は四神相応が守るとされていることに発するものである。
四神とは、即ち東は「青龍」で流水、西は「白虎」で大道、南は「朱雀」で湖沼、そして北は「玄武」で山、とされている。
長岡京にて不吉なことが連続して起こったことがあって、桓武天皇が四神相応場所の探索を命じた結果、京の地が適合したと云うことである。
東は鴨川の流水、西は山陰道の大道、南は巨椋(おぐら)池の湖沼、北は船岡の山とあてはまったのである。
朱雀大路とは、大極殿から都の中央を真南の朱雀に向かうという名付けである。

しかし北、南と云っても、当時は測量技術も何もない。
天体の動きから概略の方向は決めていたが、都市を造るには、大体ではいけない。
南北の方向を決めるに当たっては、目印の山が要る。
北は当然玄武の船岡山であるが、南はかなり遠いが巨椋池の向こうの、現在の京田辺市の甘南備(かんなび)山を目印として、平安京の朱雀大路が決められ、全体の坊条が設計・建設されたのであった。

千本丸太町の交差点の西北部に「大極殿遺址」の大きな石碑がある。
この石碑の場所を確認して、交差点から南へ下ることにする。
歩道を歩くわけであるが、後ろから来る自転車のスピードが速く、危険を感じる。
道は南に向いて下っているという認識があるのかどうか?
歩道は歩き優先の道であるので、自転車の歩道走行は、徐行運転でお願いしたいものである。

この交差点の辺りから南一帯にかけて朝堂院があった。
さしずめ国会議事堂であろうか?
そしてその周りに各政務を司る役所群があった。
現在の霞が関のようなものであったろうか?
しかしながら、礎石も何も埋もれてしまっている。
建物の建て替え工事をする時には出てくるようである。

この辺りの通りの左右の町名は聚楽町なり聚楽廻町となっている。
豊臣秀吉が建設した聚楽第の跡地と重複しているのであろう。

その付近のバス停に「出世稲荷神社前」と云うのがある。
バス停はあるが肝心の神社の地は、工事用の白いシートで囲まれている。
確かここに秀吉が聚楽第の敷地内に造った出世稲荷神社があった筈だがと思って、よく見てみると、『神社移転のお知らせ 移転先は左京区大原来迎院町』との掲示があった。
確かに以前からこの場所にはそぐわないなァ、と思っていたが、それはそれで良かったのかも知れない。

少し下った左側に、「大内裏朱雀門址」の石碑がある。
丁度現在の二条城の西の辺りである。
この辺りまでが大内裏であり、平安京の政庁や朝廷の住まいの部分である。
この朱雀門を出ると、市民の生活の場である。右京・左京と広がっていたのである。

さらに千本通りを南へ下る。
過去のものはもう見られない。
右手にJR二条駅、続いて大学のサテライト校舎がある。
京都では有名な、2校である。
その前のバス停名が「千本三条 朱雀○○前」となっている。
朱雀の名前が残されているのは嬉しい。

間もなく千本三条の交差点に至る。
広い道は斜めに続いており、ここからの千本通りは細い道を進んでいくことになる。
細い道に入るとこの辺りは、銘木の店が見られる。
組合の事務所も見かけられたが、どちらかと云うと住宅街である。

暫く行くと四条通りを横切る。
左手に、壬生寺の石柱が見えてくる。
寺の裏手にあたっている。
折角であるので、壬生寺に寄り道をすることにした。
綾小路を東進する。
暫くすると寺門が右手にあり、それを入る。
入ったところの左手が重要文化財の大念仏堂である。
壬生大念仏狂言が演じられる舞台である。

また壬生寺は幕末期の新選組ゆかりの寺でもある。
新選組はここ壬生の地において結成された。
正面表門の壬生坊城通りには、民家に屯所が設けられていた。
そして壬生寺の境内は新選組の武闘の練習場として使われた。
また、沖田総司が境内で近所の子供達を集めて遊んだり、相撲興行を壬生寺で行ったりしたということが逸話として残っている。

境内のあみだ堂の中では新選組グッズの売店があり、修学旅行の女子高生か?グッズを選んでいる集団が賑やかにいた。
他に千体仏塔と云う供養塔もあった。

壬生寺を後にして、千本通りへ復帰する。
南行きの一方通行なので、後ろから車が来たりする。
注意しながら歩かなければいけない。
旧民家と新しい建物が混在している。
どこでも見かける京の通りの様相である。

京の通りの数え歌に従って、通りを横切って行く。
松原通りを横切ったところで左手に大きな公園が現れる。
光徳公園である。
南側のスーパーとの間に万寿寺通りがあるが、この通りはこの千本通りで行き止まりになっている。

すぐに山陰国道9号線、五条通りに出た。
五条通りの向こう側にはJR嵯峨野線の駅「丹波口」がある。
なぜ丹波口なのかは分かっていなかったが、五条通りとの組み合わせで、丹波亀岡方面への口であることが分かった。

ここから千本通り(朱雀大路)は、京都市中央卸売市場の建物の間を通っていく。
さぞや早朝から午前中はトラックの行き交いは賑やかなんだろうと想像する。

市場を抜けて左手に何やら神社がある。
名板に島原住吉神社と書かれている。
島原? 更に隣に「島原西門碑」と書かれた石の名板がある。
島原ってここにあるのか?
早速、探索してみよう…。

綺麗な石畳の道を入る。
突き当りの角屋の見事な塀が見える。
その塀の下に「東鴻臚館址」の石碑と説明石盤がある。
東鴻臚館、平安京の海外からの客をもてなした建物即ちホテルである。
名前は聞いていたが、この場所にあったのかと感を新たにした。

角屋は後にして、先ず東の正面の門まで歩いて見る。
雰囲気のある置屋、揚屋の建物も見られる。
正門は寺院の門さながらで、「嶌原」と書かれた提灯が両側にぶら下げられている。
島原の名の起こりは、秀吉の時代から何回かの移転騒動があり、それが急に移動させられるものだから、丁度その時に起こっていた天草四郎の島原の乱の騒動に準えて、島原と呼ぶようになったそうである。
正式には朱雀野、西新屋敷だそうである。

さて、島原の超有名処「角屋(すみや)」の前に向かう。
角屋は江戸期から連綿と続いている「揚屋」であり、重要文化財でもある。
この角屋は、大夫や芸妓を呼んだ遊宴だけでなく、和歌や俳句などの席も設けられ、総合的なサロンと云う形であった。
そのようなわけで、建物も町屋風で、他の遊郭に見られる牢獄のような格子などもはめられていない。
この一帯には、江戸期の雰囲気が残っていた。

元の通りに戻る。
もう七条通りに出るころである。
その手前に、「朱雀正会町南北辻子」と云う住所看板もあった。
やはり朱雀の名前が残っている。
七条通りを渡ると、自動的に梅小路公園に入って行く。
蒸気機関車館や公園がある。
そしてJRの東海道線や山陰本線、新幹線の線路群がある。
ここで千本通りは一旦行き止まりとなる。

大きく迂回しなければならない。
公園の中を大宮通に向けて歩く。
何と途中に、大きな水族館ができている。
通常水族館は海岸べりに造るものと思っていたが、このような盆地の中にも造れるようになったのだと、その技術の進歩に感激した。
そのうち、魚の養殖なんかも内陸部でできるようになるのかも知れない。

大宮通りに沿って南進、JRの線路をトンネルで潜り、八条通り辺りへ出る。
そして西進して、元の千本通りに戻ったのであった。
この辺りは、平清盛の八条邸があった近くである。

南進する。
もう普通の住宅街である。
住宅街から少し商店が混ざってきたと思ったら、大通り九条通りに出たのであった。
この九条通りからほんの少し北に入ったところに「羅城門(らじょうもん)遺址」石碑がある。
都が寂れて、鬼が棲む羅城門である。
しかし羅城門は平安時代の中ごろには、台風のために倒壊してしまい、以後は礎石・廃材しか残っていなかったと云われている。
現在は石碑が建つ児童公園となっている。

土の下の朱雀大路探歩、この場所が終点である。

しかし道はここで終わりではない。
羅城門から出ると、道は名前を変えて各地へと目指す通りになって行く。
そのまま南へ行く通りの名は鳥羽街道、現在の名は引き続き千本通りである。

このシリーズで以前探歩したところでもある。

〔完〕