健太と浩也は普通に地元の中学に進んだ。向洋中学という。
早速、野球部に入部した。

この地区には帝都大学の付属の中高がある。
一昨年甲子園へ出た経験もある学校である。
甲子園を目指して、この中学へ若葉クラブから3名が入学した。
この3名の甲子園への道は、とりあえず敷かれたのであった。

有名校だから、気を抜かずに3年間頑張れば、高校の野球部に入れる。
甲子園への可能性はかなり高くなってくる。
敷かれたレールであるが、それはそれで正解である。

健太・浩也の向洋中学野球部は部員が各学年10名程度である。
一年生の新入部員は、用具係、グランド整備係である。
本格的な練習をさせてもらえるのは3年生が引退した秋からである。
その時に、ポジションも決められる。

しかし、少年野球で実績あるものには、少しは配慮される。
そのポジションでの練習もさせてくれる。

健太と浩也は早速ピッチャー・キャッチャーを志望し、認められた。
毎日50球ぐらいの投げ込みは許されたのであった。

練習は放課後2時間、それに朝練1時間、毎日であるので結構ハードである。
逆に土曜日曜は休養日であるが、月の半分位は、練習試合か大会である。
ほぼ野球漬けである。

しかし、それぞれの家庭には良いこともある。
練習や試合のお世話はしなくていいからである。
気が向いたときのみ、試合を見に行ってやれば良い、と云う生活に変化する。
有り難いことではあるが、反面寂しいことでもある。

秋になった。練習も本格的になった。
バッテイングもさせてもらえる。
健太、浩也のコンビはバッティングピッチャーに駆り出されっぱなしの毎日が
続いた。
しかしこの練習が、ピッチャー・キャッチャーを作って行くのである。
時々剛速球を投げてやる。
バッターは腰が引ける。
けど、この球を打ってやると思った者が伸びるのである。
次は当ててくる。
数回のうちに、ヒットになることもある。

良いピッチャーが自軍にいると、やり方ひとつで全員が伸びてくるのは、この理由に依るのである。

健太も浩也も体が大きくなってきた。
ほぼそれぞれの父親と同じ背の高さとなっていた。
そうすると、投げる球も速くなってくる。
キャッチャーでいえば、盗塁阻止で2塁に投げるのにノーバウンドで楽に届くようになってきた。
ますます、野球が面白くなってくる時期である。

秋の広域の大会が間近になった。
3市合同であるので、12~3チームの出場である。
2年生は全員選手登録する。
1年生も4~5人の登録ができる。

健太も浩也も登録されて、背番号をもらった。
勇んで家に持って帰った。
母親にユニホームに縫い付けてもらった。
袖を通してみた。
背中がずっしりと重い感じがした。

次の日曜日、市民球場で隣町の帝都付属中学との対戦である。
若葉クラブから帝都に入った仲間はスタンドにいる。
試合が始まった。
健太や浩也の出番はない。グランドボーイと声出しに徹するだけである。

試合が5回まで進んだ時、健太に監督から声がかかった。
「肩慣らししとけ! 行くかも分からんぞ!」
浩也とブルペンに行った。
相手のベンチから見られていると思うと、ワクワクしてきた。

試合は5-2で勝っている。
しかしピッチャーは球筋が定まらなくなって来ていた。
7回表になった。
「ピッチャー山本。キャッチャー斎藤」
と監督は審判に言った。

さあ出番である。
監督から、
「2点まではいいぞお前にやる。遊んで来い!」
と尻を叩かれた。

速い球である。
2人まで三振を取った。
あと一人になった。
やはりここで緊張したのであろう…。
ファーボールを出してしまった。

「ホームランで2点か? お小遣い貰ったし、使ってもいいか? しかし高いのはダメだぞ! 球のな…」
キャッチャー浩也が走って来て言った。
洒落も交えて、母親みたいなことを云う。

「浩也行くぞ!」
投げた。低め…。
空振りであった。

浩也から同じボールのサインが出た。
「行くぞ!」
バットに当てられた。
しかしボテボテのゴロ。
健太は一塁へ走った。
もちろん浩也も走る。
ファーストががっちり補給して、一塁へ到着した健太に軽く投げた。
塁審の手が上がる。
「アウト!」
ホームベースに向かって全員が走った。

「ありがとうございました」気持ちよく挨拶ができた。
初戦は終わった。
2時間後に次の試合が待っている。
昼飯を食べながら、ミーティングとなった。

監督は言った。
「勝てたのは、時の運だ…。次は負けるぞ…。俺は知らんからな…」
分からんことを云う監督である。
皆、ワイワイ言いながら弁当を食べた。

次の試合は、同じ町の中学校、泉中学である。
健太が先発した。
ワンヒットだけで、5回まで抑えた。6-0である。
2年生の先輩が残りを締めた。

これでベストフォー。
あと2つで初優勝である。
それは来週まで待たれることになった。

次の日曜日、隣町の鴻城館中学との準決勝である。
先発は2年生。打たれはしないが、こちらも打てない。
0-0で延長戦となった。それでも点が入らない。
既定の時間が経過した。引き分けである。
引き分けは勝者を籤で決めることになっている。

キャプテン同士、ホームベース上で籤を引いた。
鴻城館が「○」であった。
瞬間ガックリきたが、直ぐに拍手に変わった。
健太と浩也はいい経験をしたと思った。
点を取らなきゃ勝てないのが野球であると…。
当たり前のことが、ハッキリとわかったのであった。

10

2年間はあっと云う間に過ぎた。
泥まみれ、汗まみれ、そして涙まみれ、笑いまみれであった。
優勝も何回もした。
しかし全国に行けなかったのは、若干の心残りであった。

3年生も秋になった。
進路を決める時である。

甲子園を目指す思いが、どの道を選ばせるのか?
健太も浩也もあれこれ悩むことになるのであった。

健太にも浩也にも、各方面からお誘いが来ていた。
先ず市内の帝都付属、それに県外の甲子園常連校2校、それに県立の工業高校からである。

二人とも両親には勉強も頑張ると宣言した以上、意地がある。
それに、甲子園へ既に敷かれているレールに乗るなんて魅力が無い。
出来たら甲子園への道を切り開いて行こうという意欲のある学校に行きたい。

二人で同じ高校へ行ってバッテリーを組もうと誓い合った。
そしてどこにするか、二人で話し合った。
そしてこの地域で文武両道を目指す進学校、杉岡中央高校を狙うことにした。
ここは野球もそこそこ強い。
いつも県ではベスト8には入っている。

それぞれ担任の先生に決意を相談してみた。
答はどちらも同じ、
「今の成績ではなァ…。ちょっときついぞ」
であった。
でも行きたい。
決めた以上は行く。
意志は固かった。

次の休みの日、2人で浩也の両親に相談してみた。
「そうか、決意が固いか…。行けないことはないぞ! 今から必死でやれば間に合うぞ! 勉強方法を教えてやるからな…。各教科、問題集を2冊づつ手に入れろ。厚い物はダメだぞ…。それを3回づつやること…。三回目には全て正解が答えられるようにな…。覚えてしまうことだ…。わからんところはゼロだぞ…。先生や俺に聞け! 100%できるようにな…。まずやって見ろ!!」

健太も家に帰って相談した。
「やりたいんなら、やって見ろ! 問題集は全部買ってやる。どんなのがいいか、先生に良く聞いてみろよ!」

4か月間わき目も振らず勉強した。
その甲斐あってか、受験直前の模試の偏差値では合格間違いなしのところまで来ていた。

11

入試は終わった。
2人ともできた感触はあった。
あくる日一緒に、新聞で答え合わせをした。
所々に間違いはあったが、9割方はできていた。
早速グラブと浩也のおじいちゃんから貰った硬球を持って、公園にキャッチボールに行ったのであった。

杉岡中央高校は1年生の時からコースによりクラス分けがされる。
健太は進学文系、浩也は進学理系を選んだ。
その手続きをして、次に野球部の門を叩いたのであった。

「おゥ~。お前ら合格したか…。そりゃおめでとう…! 練習は厳しいぞ!。ケツを割るなよ!」
監督がたまたまいて、喜んでくれた。

一か月ほどしてから、春の県大会が始まった。
一年生は皆、スタンドで応援した。

ベスト8で鴻城館高校と当たった。優勝候補である。
8-1のコールドで負けてしまった。
その後も鴻城館は勝ち続け、優勝した。

夏の甲子園県予選が始まった。
今度は準決勝まで行った。
帝都付属に勝って、甲子園も見えてきた。
しかし、今度の相手はまたもや鴻城館である。
5-1で負けた。
引退する3年生の甲子園の夢はかなわなかったのであった。
「きっとお返しして見せます。見ててください先輩!」
と全員で約束したのであった。

3年生が引退すると、2年生1年生だけのチームとなる。
練習は学年の境目がなくなる。
選手登録も比重は2年生であるが、1年生も加えられる。

秋の県大会が始まった。
この大会に勝てば近畿大会に出られる。
近畿大会でベスト4に入れば春の甲子園は確実になる。
しかし、そうは問屋が卸さなかった。

12

次の夏、甲子園の県予選となった。
健太も浩也もベンチ入りは果たしていた。
健太はリリーフ要員、浩也は代打要員である。
準決勝まで来た。
帝都付属と当たった。
初回に打たれ、あっさり負けてしまった。
健太も浩也も出番はなかった。

そうこうしてるうちに秋の大会が巡って来た。
健太も浩也も上級生である。
エースバッテリーとなっていた。
県大会の決勝の相手はまたまた鴻城館である。

もう鴻城館は恐くない。
楽に勝負ができた。優勝である。
地区大会まで行った。
しかし近畿大会では大阪の強豪と、いきなり当たってしまった。
これに勝てば春の甲子園と思ったが、これも問屋が卸さなかった。

次の年は最後の夏である。
万全の態勢で県予選に臨んだ。
決勝まで行った。
今年の相手は同じ公立の県立商業である。
若葉クラブで一緒だった高ちゃんがいる。

しかしなぜか劣勢であった。
あれよあれよという間に点差が開いてしまった。

1-5で9回表を迎えていた。
もう勝ち目はないというスコアである。
斎藤浩也の打順からである。
「打って、あのピッチャーの鼻をへし折ってやれ!!」
監督から激が飛んだ。

最終回のトップバッターである。
浩也は何とか塁に出てやろうと思った。
カウント3ボール-1ストライクである。
恐らく次はストライク、バッティングチャンスである。
来た。

ど真ん中。
バットを振った。
軽やかな感蝕であった。
ボールは外野を転がっている。
2塁まで行けた。

13

次は健太の打順である。
4点差である。
ランナーをためるのが大事である。
健太も思いっきりバットを振った。
当たった。
セカンドの頭を越したヒットである。
ランナー1、3塁となった。

ここで相手側はピッチャー交代した。
交代は良かったが、ストライクが入らない。
たちまち満塁となった。

次は杉岡中央7番の葉山である。
ヒットが欲しい。
打った。
抜けた。
ランナー浩也と健太が還った。
まだランナー1、2塁で残っている。
おまけにノーアウトである。

打つか?バントか?悩ましいところである。
監督はヒッティングを選択した。
8番山重、下位ではあるがスラッガーである。
ホームランもある。
初球を狙った。
スコーンとボールが空に向かって弾かれた。
3人のランナー、ゆっくりとホームインした。
逆転である。

この後も点を追加した。
8-5になって、9回裏を迎えることになった。
ピッチャー健太も疲れている。
「さあ行くぞ!!」
と声を掛けた。
力み過ぎである。
最初のバッターにはフォアボールを出した。

それで落ち着いた。
キャッチャーミット目掛けてボールが行くようになった。
2塁ゴロで1アウト、ショートゴロで2アウトまで来た。
後一人である。
低めに投げた。
低すぎた。
暴投である。
ランナーは進塁した。

キャッチャー浩也がマウンドに来た。
「健太、ランナー気にすんな! 2点までお前にやる。思い切って投げろ!!」
いつか聞いた言葉である。
気楽になった。
「うん」
と頷いた。

14

相手の方が土壇場である。
こっちは余裕がある。
気持ちは、打って見ろ! となった。

健太は渾身のストレートを投げた。
ボールは浩也のミットにしっかりと収まった。
見事三振、優勝したのであった。

夏の甲子園、道は繋がった。
健太も浩也も長いことかかって切り開いてきた道であった。

〔完〕

〔余談〕
夏の甲子園、今年も都道府県大会を勝ち上がった選手たちが甲子園へ集合した。

地元の人たち、関係者の喜びとご苦労はいかばかりのものだったであろうか?
祝福申し上げたいと思う。

今年も地方大会に参加したのは約4000校。
その中から49校が選ばれる。
狭き門である。
しかし狭いからこそ、その価値が大きいものだと思われる。

高校球児にとって甲子園へ行ける確率はどれくらいのものであろうか?
春・夏で2年間のチャンスがあるとして、述べ170校が甲子園へ到達する。
うち、約40%が連続出場だったり、この間の複数回だったりの出場である。

それを差っ引いて、甲子園への到達は100校ぐらいである。
1校当り平均20人の部員がいるとして、2000人が甲子園へ行けることになる。

先ほどの4000校X20人=80000人の中から、2000人であるから、
甲子園へ行ける確率は2.5%となる。

野球少年の甲子園への道は、全くもって狭き道であるが、汗と涙で目指している。