京都市の北部、大徳寺のすぐ南西方向に船岡山と云う小高い丘がある。
この船岡山は平安京建都の際に、北の玄武に当たっていた。

古代中国の風水において、都市建設などには、四神相応が都市を守り、良しとされている。
即ち、東は「青龍」で流水、西は「白虎」で大道、南は「朱雀」で湖沼、そして北は「玄武」で山、とされている。

この四神相応の考え方は寝殿造りの庭の造作にも生かされている。

平安京の四神は、東は鴨川の流水、西は山陰道の大道、南は巨椋(おぐら)池の湖沼、北は船岡の山との当て嵌めが、比較的うまくいっている例である。

さて話を船岡山に戻す。
船岡山は広大な大徳寺の保有地であり、現在は京都市が借地して、船岡山公園として市民の憩いの場として整備されている。

この船岡山に東方向から繋がる通りが今回の建勲(けんくん)通りである。
先ごろ探索した京都市内を南北に繋げる猪熊通りの、玄武神社の前から別れて、西に進む通りである。
僅か400m程度の通りであるが、玄武神社前から西へ向かって、順に訪ねてみることにする。

スタート直後、先ず右手に現れるブロック塀、このの向こうはは今宮神社の御旅所である。
かつてはこの通りに神門があったそうである。
塀の中を覗いてみると、時代の流れか、駐車場となっている。

塀の反対側は住宅である。
塀を過ぎると大宮通りとの交差点に出る。
交差点の北東隅に、大きな鳥居が建っている。ここが御旅所の現在の門となっている。

この辺りからは住宅と商店が混在してくる。
さらに西に進む。
商店、住宅、駐車場が並ぶ。
しばらく行くと道が少し左に折れている。
少し折れた道の右側に「別格官幣 建勲神社」の石柱がある。
この建勲通りは建勲神社へ至る道である。

建勲神社の正式名称は「たけいさおじんじゃ」、通称は「けんくんじんじゃ」である。
観光の神社でないので、殆ど知られてはいない。

この石柱の辺りからは商店は極めて少なくなり、ほぼ住宅街となっている。
通りの向こうに赤い鳥居が見えてくる。
その鳥居を目指して進んでいくと、その鳥居前で船岡東通りと交差して、建勲通りは終点となった。

ここからは建勲神社の参道石段を登っていくことになる。
急な石段が続くが、仕方がない。
神社へは他の方向からも参道がある。
それらは比較的緩やかであるが、この正面からは急である。

途中に「大平和敬神」の石柱が建っている。
創建当時はこの場所に本殿があったとされている。

この石段を登り詰めると、神社の境内へ到達する。
この神社の祭神について、そろそろ説明をしておこう。

織田信長が本能寺の変にて止む無く自害した。
その後を引き継いだ豊臣秀吉が、大徳寺総見院で信長の葬儀を行うとともに、正親町天皇の勅許を取り付けて、この船岡山に信長廟を建設したのがこの神社の始まりである。

時代はずっと下って明治2年、徳川の時代から解き放たれて、明治天皇の詔勅により、織田信長を祀る神社の創建が宣下された。
それを受けて織田信長の子孫で天童藩知事・織田信敏の東京の自邸内と織田家の旧領地の山形県天童市に建勲社が造営されたという。

そして明治8年にこの船岡山に東京の建勲社が移動・創設されたのである。
その後に、御子息の織田信忠も合祀されている。

そして明治の末に、山頂付近に本殿が移され、現在に至っている。

石段から京都市内を振り返ると、正面に三角形の比叡山が聳えている。
信長と延暦寺、今でも対峙しているような、そのような気がした。

境内は良く整備されている。
拝殿に至る参道に信長が好んだ幸若舞「敦盛」が石盤に掘られている。

『人間五十年、
下天の内を比ぶれば、
夢幻の如くなり

一度生を享け、
滅せぬもののあるべきか』

人の世を人間(じんかん)と云い、それは神仏の住む最下層の下天世界の一昼夜にしか当たらない。
短く儚いものであり、夢・幻のようであるとの意と思われる。

本殿にお参りし、暫し信長・信忠公を偲んだのであった。

参拝者はいない。
観光神社でないので、参拝者は例祭の時以外は、いつも少ないのであろう。

この建勲神社の御利益は、信長公が日本国の歴史に刻みこんだ遺徳から、国家安泰・難局突破・大願成就の神社とされている。

船岡山公園は様々な木々が植えられている。
草花もある。
鬱蒼とした散歩道も、太陽と戯れるところもある。

しかしながら、猛暑の日、そのような余裕はない。
早々に下山したのであった。

〔完〕