現在の歌姫街道は住宅街の中を通り、一部離合困難な道とニュータウンの中を通る広い道で構成されている。

歌姫街道は、古代から奈良と京都を結ぶ道で、先回に訪ねた奈良坂が開通するまでは、平城京から京都方面へ抜ける山背(やましろ)街道の一部として、京都山城へは勿論のこと、宇治、そして近江に至るメインの道で、往来盛んな道であった。

この歌姫街道の名前は、当時の雅楽寮から由来していると云われる。
街道の緩やかな丘陵には、かつて宮殿や池、官署のある松林宮があった。
そこには雅楽に携わる楽人や歌舞を行う女官が住んでいたと云われる。

感性豊かな芸能人女性たちがこの街道沿いに多く住んでいたことから、幻想的で何か華やかな感じのする名前である。

歌姫街道を南から北に向かって歩いて見る。
スタートは平城京跡の北端、先ごろ再建された第一次大極殿の少し東、佐紀町の交差点からである。
ここは、平城京の朱雀大路と一条通の交差点で、この地点から北が都の碁盤の外となっている。

まずは田園風景を眺めながら進む。

この歌姫街道は平城宮の造営工事に欠かせないものであった。
一つは木津川の水運を使って大量の材木を運び入れたこと。
もう一つは街道の山裾にある瓦窯で作った何百万枚もの瓦を運ぶこと。
この街道は古代には官道であり、唐に習い、数10mの道幅の直線道路であったと云われている。

暫くすると住宅街の中に入っていく。ここら辺りはまだ道が広い。
この界隈で唯一と云っていいのか、左手に大きな工場がある。
大阪の樹脂成型会社の奈良工場である。

ここを過ぎると道路の真ん中に、大木が生い茂り、地蔵の祠が立っている。
昔からの街道の守り地蔵であろうか?道の真ん中は珍しいものである。

そこからさらに進む。
道路はいよいよ離合困難な幅になってくる。

左手に神社がある。
「添御縣坐神社(そうのみあがたいますじんじゃ)」である。
祭神は、天照大神の弟である速須佐之男命(すさのおのみこと)他である。
別名、歌姫神社と云われる。

昔から農業の神、旅行の神として人々に崇められてきたそうである。
天皇や貴族も平城京から旅に出る時、この神社にお参りして旅の安全を祈るのが通例であったと云われている。
また、平安時代になって、あの菅原道真も参詣したと云われる。

ここから先、街道は下りとなる。狭い道を下って行く。車で走って対向車でも来たら大変なところである。
平地まで降りると、道幅は広くなる。
田園地帯の中を通り抜けると、そこはニュータウンとなる。
整備された道路、街区が広がっている。

歌姫街道はこのニュータウンを通り抜け、京都府木津川市に入って行く。
その場所に、
『從是南奈良縣』の石柱がある。
歌姫街道の主要部はここで終了である。

この歌姫街道は古代の京都・奈良を結ぶ主要な道である。
このような道には、幾多の歴史ドラマがある。

『三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情こころあらなも 隠さふべしや』
〔額田王 万葉集巻1‐18〕

これは、西暦667年に都が飛鳥から近江の大津京に移ることになったとき、
その近江に向かう途中、額田王(ぬかだのおおきみ)が、この歌姫の街道で詠んだ歌とされている。

飛鳥を離れて、遠い近江の大津京まで行かなければならないのに、雲はなぜ三輪山を隠してしまうのか、最後まで見ていたいのに、
情けあれば隠さないでほしい、この寂しい気持ちを分かってほしい。

歌を歌った姫の第一号であろうか…?

次に、壬申の乱の時である。
都が飛鳥から大津へ移り、天智天皇の時代となる。皇太子であった大海人皇子を廃し、大友皇子を皇太子に立て、そして自ら崩御してしまったことで、事件が起こった。

不要として追い出され、岐阜関ヶ原辺りまで退却した大海人皇子、軍を編成し、大友皇子が陣取る飛鳥奪還と大津を廃する戦いを起こすことになった。

大津で勝利した大海人皇子は飛鳥に向かう…。
北から大海人軍が奈良に入ったのは、この歌姫街道を越えていったと云われている。

恐らくであるが、戦勝を歌姫神社に祈願したものと思われる。

奈良に入って飛鳥で勝利し、大津でも大友皇子を自害に追い込み勝利した。
そして大海人皇子は天武天皇として即位し、飛鳥浄御原(きよみがはら)宮を造営して都と定めたのであった。

皇室間の皇位簒奪劇であるが、当時はこのようなものであったのであろうか?

もう一つ、忘れてはならないのは、この天武天皇の孫、長屋王の事件である。
これも同様に皇位簒奪事件とされているが、真相は藤原氏の謀略事件であった。

万葉集によると、時の左大臣・長屋王もこの歌姫街道を通って旅をする際に、この歌姫神社で安全祈願と、再び妻と無事に会えることを願って次の歌を詠んだとされている。

『佐保すぎて 寧楽の手向けに 置く幣は  妹を目離れず 相見しめとぞ』
〔長屋王 万葉集巻3‐300〕

佐保(さほ)を過ぎて、ここ奈良山で神に奉げものを差し上げるのは、神様が妹にいつも会わせてくださることを祈ってのことですよ…。

長屋王の事件とはどういうものか? 少し振り返ってみる。

平安京へ遷都した桓武天皇(かんむてんのう)に進上された『 続日本紀』を参考にさせていただいた。

時代は奈良時代、729年2月10日、
「左大臣の長屋王は、密かに左道を学び国家を倒そうとしている」という密告をするものがあった。
左大臣とは行政の最高トップ。今で云う首相のようなものである。
聖武天皇はその夜、藤原宇合らが率いる兵で長屋王の邸を包囲させたと云う。

翌11日、天皇は舎人親王、新田部親王、藤原武智麻呂らに長屋王の罪を追及させ、訊問させた。
そして翌々12日、長屋王を自殺させたのである。
その妻の吉備内親王と四人の子供らも、自ら首をくくって死んだと云う。

次の13日、長屋王と吉備内親王の遺骸を生駒山に葬った。
考えられない程の高速の仕舞いである。

吉備内親王には罪がないから慣例に準じて葬送せよ。
ただし笛や太鼓による葬楽は止めよ。
長屋王は犯した罪により誅せられるものであるから、罪人であるとは云え、皇族なのでその葬り方を醜いものにしてはならない。

天皇もある程度は分かっていたのかも知れない。
しかし、藤原氏との関係でこうならざるを得なかったのであろうか…?

長屋王は天武天皇の孫で高市親王の子であり、吉備内親王は草壁皇子の娘である。
すなわち二人は従妹同士である。

正史では、長屋王は政治の最高位であることに驕り、王位を奪おうとした謀反の王と伝えているが、実際には真相はわからないとされている。

しかし、この事件は、平安時代になって、陰謀であったとすることで落ち着いている。

背景はこうである。
聖武天皇は病弱で、事件当時には非藤原氏系の安積親王しかいなかった。
政治的な対立もさることながら、天皇と安積親王に何かがあった場合には天皇の叔母・吉備内親王の生んだ男子、長屋王の息子でもある膳夫王ら三王が男系皇族での皇位継承の最有力者となる筈であった。

そのことが、「長屋王排除」の理由と云われている。
長屋王の死去の後、藤原四兄弟は妹で聖武天皇の夫人であった光明子を皇后に擁立して、藤原政権を樹立・継続したのであった。

しかし、悪いことは長く続かないもので、四人とも天然痘により737年には死没してしまったと云う。
長屋王を自殺に追い込んだ祟りであると噂されたと云われる。

『続日本紀』によると、あくる年738年には、長屋王のことを誣告した人物の一人である中臣宮処東人が大伴子虫により斬殺されてしまう。
子虫は長屋王に恩遇されていた人物の一人で、囲碁のときに話が王のことに及んだ時、憤激して殺したとなっている。

しかし、この事件に関しては、大伴子虫は罪に問われていない。
『続日本紀』に「誣告」と記載されていることから、同書が成立した平安時代初期の朝廷内では、長屋王が無実の罪を着せられたことが公然の事実となっていたと想定されている。

また『続日本紀』では、長屋王の兄弟姉妹と子孫、およびそれらの側室のうち連座して罰せられるべき者たちは男女を問わずすべて赦免すると書かれており、この事件は『誣告』であるとが明確にされている。

平安時代に書かれたものであるので、奈良時代の所業の反省から、そういう結論になってもおかしくはないと思われる。

しかし、その後、京都へ都を移したが、再び藤原一族が再び力を持ってきて、朝廷を支配するようになってくるのである。
歴史の妙というか、利権を守ろうとする藤原氏の醜さなのであろうか…?

歌姫街道で、長屋王の話に長居をしてしまった。
王も後のちの無罪の評定に、満足していることであろう…。
歌が聞こえて来そうである。

この狭い歌姫街道に、飛鳥・平城の匂いが立ち込めていたのであった。

〔完〕